伝記
オットー温和公は、1292年6月24日に生まれたブラウンシュヴァイク=リューネブルク公である。「穏やかな者」の異名をとった。ヴェルフ家に属するドイツの貴族で、公領のうちブラウンシュヴァイクの側を治め、のちにヴォルフェンビュッテル侯領とゲッティンゲン侯領を領した。父はブラウンシュヴァイク=リューネブルク公アルブレヒト2世で、オットーはその長男にあたる。
1311年、オットーはヘッセン方伯ハインリヒ1世と妃メヒティルト・フォン・クレーフェの娘ユッタと結婚した。ユッタは1289年の生まれで、1317年に世を去り、二人のあいだには娘アグネスが生まれた。このアグネスは1371年6月2日まで生きたとされる。翌1318年に父アルブレヒト2世が死去すると、オットーは弟たちとともに領地を継いだ。弟のマグヌスとエルンストはまだ成年に達していなかったため、オットーは二人の後見人を務めた。1319年には、ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯ヘルマンの娘アグネスと再婚した。この妻は1297年の生まれで、先にブランデンブルク辺境伯ヴァルデマルの妃だった女性である。
1320年、ブランデンブルクでアスカニア家の最後の辺境伯ハインリヒ2世が死去した。ローマ・ドイツ王ルートヴィヒ4世(バイエルン公ルートヴィヒ)は、ブランデンブルク辺境領を領主のいなくなった帝国の封土として取り上げ、長男のルートヴィヒに与えた。オットーは、このルートヴィヒ4世との相続をめぐる取り決めで、アルトマルクの諸都市を幾つか保証されていた。1323年には妻の権利によってアルトマルクを手に入れ、同じ年から妻アグネスとともにカルフェルデの城と市場町も所有した。のちの新しい取り決めでは、オットーとアグネスの死後にアルトマルクの全体がルートヴィヒのもとへ戻ることになった。ルートヴィヒはアルトマルクの騎士層を味方につけようとし、ブラウンシュヴァイクの町もその側に加わった。
1334年に妻アグネスが亡くなると、ルートヴィヒとオットーのあいだの争いはいっそう激しくなった。オットーは、アルトマルクの騎士層がルートヴィヒを支持していることを見て取り、3000銀マルクと引き換えに相続の権利を放棄した。アルトマルクの統治を確立できなかったため、1343年にこれを売却したとも伝えられる。オットーは1344年8月30日、ゲッティンゲンで死去した。
遺領は弟のエルンストとマグヌスが継承し、最初は共同で治めたのち、約1年後に分割した。エルンストはゲッティンゲン侯領を、マグヌスはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領を受け取り、マグヌスは1369年の死去までこれを治めた。この分割は、ブラウンシュヴァイクの地が初めて固有の公に治められたという点で意味をもつ。1345年にはアルブレヒト・フォン・アルフェンスレーベンが、新しい公マグヌスの命でカルフェルデの城と市場町を奪い、さらに5つの村を破壊したため、ルートヴィヒが苦情を申し立てた。マグヌスはカルフェルデなどへの相続の権利を主張しており、争いは1347年の戦闘にまで進み、マグヌスは敗れた。
同じ年に亡くなった人物
- Shihab ad-Din Ahmad (1344年没)
- アンリ4世 (バル伯) (1344年没)
- アムダ・セヨン1世 (1344年)
- レオポルト2世・フォン・ハプスブルク (1344年没)
- コスタンディン4世 (1344年没)
同じ地域に関係する人物
- ベルナルド・リエター (2019年没)
- アウグスト・グリーゼバッハ (1879年没)
- フリードリッヒ・フント (1997年没)
- アグネス・ポッケルス (1935年没)
- ドロテア・ア・ダンマーク (1546-1617) (1617年没)