伝記
クリスチャン10世は1870年、コペンハーゲン近郊のシャルロッテンルンド宮殿で生まれた。父は後の国王フレゼリク8世、母はスウェーデン=ノルウェー王女ルイーセで、弟の一人にノルウェー国王ホーコン7世がいる。王子は弟妹とともに宮廷や夏の離宮で育ち、家庭教師に任せる王族の慣例と異なり、母自身の監督下で規律や義務を重んじる教育を受けた。1889年、デンマーク王家の一員として初めて大学入学資格試験に合格し、その後は軍人としての教育を受け、第5竜騎兵連隊に勤務した。1891年から翌年には士官学校でも学んだ。
1897年、メクレンブルク=シュヴェリーン大公女アレクサンドリーネと婚約し、翌年カンヌで結婚した。夫妻には後に国王となるフレゼリクとクヌーズの二人の息子が生まれた。コペンハーゲンの宮殿を住まいとし、夏は北方の離宮で過ごした。1898年には結婚祝いとしてオーフスのマーセリスボー宮殿を贈られた。1906年に祖父クリスチャン9世が亡くなり、父が即位すると、クリスチャンは王太子となった。1912年、父フレゼリク8世がドイツ滞在中に急逝し、41歳で王位を継いだ。1918年からはアイスランド国王も兼ね、その地位は1944年まで続いた。
第一次世界大戦中、デンマークは中立を保った。クリスチャン10世は1914年、弟のホーコン7世とスウェーデン国王グスタフ5世とともにマルメで会談し、北欧三国の中立を確認した。会談は1917年にも開かれた。1915年の憲法改正では女性にも選挙権が広がったが、王は改正に消極的だった。戦後の1920年、ドイツからデンマークへ戻すシュレースヴィヒ地方の範囲をめぐり、国王と内閣が対立した。住民投票では北部の75%がデンマークとの再統合を選び、中部の80%はドイツ残留を選んだ。政府はこの結果に沿う方針を示したが、国王はフレンスブルクも編入するよう首相に命じた。首相が拒否して辞任すると、国王は内閣を解任し、保守派の暫定内閣を置いた。
この決定は大規模な抗議やゼネラル・ストライキを招き、王政廃止を求める声も上がった。クリスチャン10世は社会民主党との交渉を経て自らの内閣を退け、議会の支持なしに政治を動かすことはできないと認めた。その年の選挙まで妥協的な内閣が置かれ、国王は象徴的な国家元首としての役割を受け入れた。1940年4月、ドイツ軍がデンマークに侵攻すると、国王と政府は同日朝に降伏を決め、占領下でも国内の政治的独立を保つ道を選んだ。国土が小さく、コペンハーゲンへの空襲も脅かされていたためだった。ドイツの占領は1945年5月まで続いた。
占領期、クリスチャン10世は護衛を伴わずに毎日コペンハーゲンの街を馬で巡った。その姿は抵抗と国民統合の象徴として受け止められ、近代デンマークで最も人気のある君主の一人とされた。アイスランドではデンマーク政府がドイツに屈したことが防衛関係の放棄と受け取られ、国王は著しく不人気となった。このことが、同国が1944年に共和国として独立する一因になった。クリスチャン10世は1947年4月20日、76歳で死去し、長男がフレゼリク9世として王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アレイスター・クロウリー (1947年没)
- バロネス・オルツィ (1947年没)
- ウォルター・ドナルドソン (1947年没)
- イアン・ハミルトン (1947年没)
- オッシー・オスヴァルダ (1947年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリック・ショーベリ (1905年没)
- フレデリク6世 (デンマーク王) (1839年没)
- ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン (1950年没)
- ハンス・クリスチャン・アンデルセン (1875年没)
- グスタフ・アドルフ (ヴェステルボッテン公) (1947年没)