伝記
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、1805年4月2日、フュン島のオーデンセで生まれたデンマークの作家、詩人である。生涯に二百編以上の童話、千編の詩、六編の小説、五十編の戯曲を書き、作品は百五十近い言語に翻訳された。切り絵作家としても知られる。父は二十二歳の流れ者の靴職人、母は十歳年上のアネ・マリーイで、私生児として生まれ、文盲で、結婚前は貧困から売春もしたが、働き者で敬虔で迷信深い人だったという。父は「悪魔は自分の胸の中にいる以外にない」と言うような合理的な考えの持ち主で、ホルベアの喜劇やアラビアン・ナイトを大声で読み、幼い息子に人形劇の舞台を作って与えた。息子は人形の洋服を作り、話を作って楽しんだ。幼い頃から風変わりで、背が異常に高くひょろりとして、女性的な容姿だった。
1812年、父は金と引き換えに近所の農民の息子の代わりに従軍したが、デンマークは1813年に財政破綻し、給金は得られなかった。疲労と絶望から精神に異常をきたした父は、帰還して二年後の1816年に錯乱状態になり、そのまま死亡した。父方の祖父も精神病を発症しており、自分もそうなるのではという不安を生涯抱いていたという。可愛がってくれた祖母には病的な虚言癖があり、アンデルセンも平気で嘘をつく癖があったが、その空想癖は創作力に役立った。貧民学校に通い、織工の見習いもしたが、十四歳のときオペラ歌手になろうとして、1819年9月にコペンハーゲンへ出た。
最初の三年間は困窮を極め、劇作も歌も認められず、王立バレエ団の歌唱学校やバレエ学校にも在籍した。自慢のソプラノは声変わりで失ったが、作曲家ヴァイセ、イタリア人歌手シボーニ、詩人グルベアらに可愛がられた。王立劇場の踊り子見習いとなり、支配人で国王の侍従コリンに寵愛され、その口利きで王から学費の援助を受けてラテン語学校へ通うことになった。1822年には処女詩集を筆名で出版した。しかし校長から性格と欠点を嘲笑される学生時代は悲惨だった。1828年にコペンハーゲン大学の入学資格試験と哲学試験に合格した。大学は卒業せず、旅行を自分の学校として多くの旅行記を書き、グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ユゴーらと交友した。1833年から翌年にかけてのヨーロッパ旅行では、スイスで「アウネーテと人魚」を書き上げ、ローマで『即興詩人』を書き始め、彫刻家トーヴァルセンとも親交を結んだ。
デンマークに戻った1835年に最初の小説『即興詩人』を出版すると、ヨーロッパ各国で翻訳されて出世作となり、困窮を脱した。同年から『童話集』を発表したが、当初はむしろ不評だったという。1843年のパリ訪問では、すでに文名が高く、バルザックやユゴー、デュマ父子、ハイネらと交わり、ジェニー・リンドのデンマーク初公演を援助した。1850年以降は、友人の子供や孫のために切り絵を貼った絵本を多数作った。1847年にイギリスで会ったディケンズを「我々の時代の最も偉大な作家」と呼び、1857年にはガッズ・ヒルのディケンズ邸に滞在したが、予定を延ばして五週間に及び、ディケンズ一家には悪夢となった。アンデルセンはそれを理解できなかったという。
心気症で、外出時には非常時に窓から逃げるためのロープを持ち歩き、眠るときは枕元に「死んでません」と書き置きを残した。1872年春にベッドから落ちて負傷し、完全に回復しないまま、1875年8月4日に友人メルヒオール夫妻の別宅ロリヘドで死去した。
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