HISTORICAL PERSON · 紀元前1450没

Iaret

第18王朝中期の大王妃で、アメンヘテプ2世の娘、トトメス4世の妃。治世7年のコノッソスの石碑では王の背後に描かれ、シナイのトルコ石鉱山の碑文にも名が見える。子は知られていない。

生涯
紀元前1450没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(ケナ県 / テーベ)
出生地
—
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(ケナ県)

伝記

イアレトは、古代エジプト第18王朝中ごろの大王妃である。アメンホテプ2世の娘であり、トトメス4世の妻となった。名の読み方は確定しておらず、一匹のコブラだけで綴られるため、複数の読みが考えられている。ワジェトという名で呼ばれることもある。トトメス4世の治世では二人目の大王妃にあたり、治世の前半の碑文に現れるネフェルタリがその前の大王妃であった。トトメス4世の治世7年の碑にその姿が残る。

称号には「王の娘」「偉大な王の娘」「王の姉妹」「偉大な王の妻」がある。「王の娘」と「王の姉妹」の称号から、父王アメンホテプ2世の娘であり、兄弟であるトトメス4世の二人いた主要な妃の一人だったと推測されている。母の名は伝わらない。ただし「長女」を意味する称号を帯びた記録があることから、トトメス4世の母ティアアの娘だったとの見方もある。母は王女だったはずだともいわれる。トトメス4世は副妃ティアアの子であり、イアレトとの結婚によって王位の正統性を得たとする説もあり、結婚は純粋に政治的な理由によるものとされる。

トトメス4世にはもう一人の大王妃ネフェルタリがいた。ネフェルタリは王の娘ではなく、碑文では治世の前半に現れる。ネフェルタリのほうが先に大王妃だったと考えられ、イアレトが妃となる年齢に達したとき、ネフェルタリが亡くなったか、脇に退けられたのではないかという意見がある。一方、複数の大王妃が同時にいた王もいるが、それは王女が特別な事情で父の妻となる、象徴的な場合が多かった。イアレトは王女であり、その突然の登場は王母ティアアの死に続いたのかもしれない。血筋によって、かつてティアアが担った役割を継いだのだろうという。その場合、ネフェルタリは王自身が選んだ妻、イアレトはその身分ゆえに儀礼上の意味でのみ妻とみなされたことになり、両者は役割が異なっていたはずだ。ただしこれはあくまで推測であり、確かなのは、ネフェルタリが王母ティアアの存命中に大王妃だったことと、イアレトが治世7年に大王妃だったことだけである。

イアレトを示す記録は三点しか知られていない。うち二点は治世7年のものである。一つは第一急流に近いエレファンティネの付近にあるコンソスの碑で、トトメス4世がヌビアの神デドゥンとハの前で敵を打ち倒す姿が刻まれ、背後に立つイアレトが「偉大な王の妻、王の娘、王の姉妹」として描かれる。彼女は右手に棍棒を持っていた。もう一つは、シナイ半島のセラビト・エル・ハディムにあるトルコ石鉱山の碑で、そこでは単に「王の娘」と記される。三点目は出所不明の凍石製スカラベ印章で、バーゼルの博物館に収められ、単に「長女」として現れる。

イアレトの子として知られる者はいない。トトメス4世の子は複数知られているが、母の名が分かるのはアメンホテプ3世の母だけである。イアレトは娘ばかりを数多くもうけ、息子をもうけなかったともいわれる。次の王となったのは、トトメス4世の別の妻ムテムウィアの子アメンホテプ3世であった。ムテムウィアは副妃だったとされ、その名は息子の治世以降の記録にしか現れない。ムテムウィアをネフェルタリと同一人物とみる説が誤りなら、後継者の母はネフェルタリでもイアレトでもないことになる。イアレトがシタムンの母で、ネフェルティティの祖母だった可能性も指摘されている。いつ亡くなったか、どこに葬られたかは分からない。

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