HISTORICAL PERSON · 1340年没

ボレスワフ・ユーリー2世

ハールィチ・ヴォルィーニ王国の支配者。正教に改宗しユーリーと改名して即位し、義兄カジミェシュ3世を後継者に指名したが不満貴族に毒殺された。

生涯
1340年没
死亡地
ウクライナ(ヴォルィーニ州 / ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー)
出生地
—
出典
世界地図
ウクライナ(ヴォルィーニ州)

伝記

ボレスワフ・ユーリー2世は、1308年(1305年から1310年のあいだともされる)に生まれ、1340年4月7日に没したハールィチ・ヴォルィーニ王国の支配者である。マゾフシェのピャスト家の出身で、父はマゾフシェ公トロイデン1世、母はハールィチ王ユーリー1世の娘マリアである。生まれはカトリックであった。

1323年、母方の叔父にあたるアンドリーイとレーヴ2世が子のないまま相次いで亡くなり、ハールィチを治めてきた家系が絶えた。そこで2人の甥であるボレスワフが新しい統治者に迎えられた(1325年とする説もある)。ポーランド王やハンガリー王、トロイデン、リトアニア大公ゲディミナスらがこの若者の擁立を認めたとされ、近隣の君主たち、とりわけタタールのハンは、小さなマゾフシェ公家の出である彼を競争相手とは見なさなかった。ボレスワフは正教に改宗してユーリーと名を改め、「ルーシの生まれながらの公にして主」を意味するラテン語の称号を用いた。ただし、ハールィチとヴォルィーニの大貴族であるボヤールは彼の統治に抵抗した。

1324年、ユーリー2世はヴォロディームィルに都市の権利を与えて宮廷を置き、この都市にはマクデブルク法が適用された。1325年にはドイツ騎士団の総長ヴェルナー・フォン・オルゼルンに平和と友好を守ると約束し、1327年には騎士団と同盟を結んで、トルンの商人に交易の許可も与えた。教皇ヨハネス22世との往復書簡も残っており、ローマに対しても積極的な外交を行ったとされる。1331年にはコンスタンティノープル総主教イサイアスにハールィチ府主教座を復活させてもらった。この府主教座は、モスクワ公イヴァン・カリタと府主教テオグノストが手に入れようとしていたものである。同じ1331年に、ゲディミナスの娘で、ポーランド王カジミェシュ3世の妃アルドナの妹にあたるエウフェミアと結婚した。妃の名には異説もある。彼の外交は、ポーランド、リトアニア、ローマ、タタールのあいだの均衡を特徴とした。

ユーリー2世は、ドイツ人をはじめ当時この地に移り住んでいた大勢の都市住民に支持されていた。一方、ボヤールは、彼が自分たちの影響力を削ごうとし、カトリックの聖職者を優遇し、都市の住民やポーランド人・ボヘミア人・ドイツ人などの外国人を保護しすぎると非難した。1338年、ヴィシェグラードでカジミェシュ3世、ハンガリー王カーロイ・ローベルトと会い、反対派を抑える軍事援助を得るため、義兄であり父の又従弟でもあるカジミェシュ3世を後継者に指名する協定を結んだ。この協定はボヤールの敵意をいっそう強めた。1339年にはサノクにもマクデブルク法が適用された。

翌1340年4月7日、ユーリー2世は正教徒のボヤールによって毒殺され、子のないまま世を去った。動機について、宗教の問題ではなく、1338年の協定でポーランドとハンガリーが自分たちの候補を決めたことに対する地元ボヤールの外交上の駆け引きだったとみる研究者もいる。彼の死によって、王国の継承をめぐるポーランド王国とリトアニア人の衝突は避けられなくなり、1340年から1392年にかけてハールィチ・ヴォルィーニ戦争が戦われた。この戦争の末、王国は独立国でなくなり、ガリツィアはポーランドに、ヴォルィーニはリトアニアに分かれて帰属した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物