伝記
ギヨーム1世は、1286年ごろに生まれたエノー伯で、ホラント伯、ゼーラント伯も兼ね、善良伯と呼ばれた。ホラント伯としてはウィレム3世とも数えられる。エノー伯ジャン2世と、ルクセンブルク伯ハインリヒ5世の娘フィリッパの三男である。若いころから、一族がフランドル伯領を握るダンピエール家と戦うなかで働いた。反乱を起こしたゼーラントの人々を助けるためにホラントへ侵入したフランドル軍を退け、ゼーラントを服従させたと伝えられる。1302年に兄のジャンが金拍車の戦いで戦死し、父の死後、エノー、ホラント、ゼーラントの三つの伯領の後継者となった。1304年から伯の座にあり、1305年にはヴァロワ伯シャルルの娘で、のちのフランス王フィリップ6世の妹にあたるジャンヌと結婚した。1306年にはフランドル伯と4年間の休戦を結んだが、期限が切れると戦いは再開された。ホラントとゼーラントの人々は、自分たちの海岸を守る必要があるなどを理由にエノーでの戦いに力を貸さず、そのため1310年、彼はかなり厳しい条件で講和を求めざるをえなかった。
ユトレヒト司教ギー・ダヴェーヌは、伯の叔父にあたる。司教がヴィエンヌ公会議に出るため国を離れるとき、フリース人を抑える要塞の建設を命じていた。司教の不在と死んだという誤報にあおられたフリース人は、工事の者たちを追い払って要塞を壊し、フォレンホーフェ城を囲んだ。伯は陸路で進軍し、司教も軍を率いて戻り、フリース人は和を求めた。のちに司教は卒中とも毒殺ともいわれる形で世を去り、アムステルラントとウォルデンの地がホラント伯領に組み込まれやすくなった。伯は親族で顧問のフレデリック・ファン・ジルクを新しい司教に選ばせた。1313年には東方の商人の船の通行税を免除した。1315年にはフランス王ルイ10世の支援を得てフランドルとの戦いを再開し、艦隊でスヘルデ川をさかのぼってリュペルモンドなどを焼いたが、大雨に阻まれ、続く疫病もあって交渉に移った。ルイ10世が1316年6月に亡くなり、後継のフィリップ5世の地位が固まるまで時間がかかったため、条約は1320年6月2日にようやく結ばれた。1322年3月21日には、ジャンリの住民にモンスと同じ法で治められる特権を与えている。同年、免税を全領に広げたところ、北ホラントの都市が反発して同盟を結び、ドルドレヒトの商人を襲った。弟のジャン・ド・ボーモンが調停に送られ、ギヨームも軍を率いて同市に現れると、同市は許しを求めて多額の金を払い、特権を守った。1320年の条約がフランス王に仲裁の役を与えていたため、最終的な和平は1323年3月3日にパリで、シャルル4世のもとで結ばれた。
統治では、フランスとの同盟が権威を高めた。娘たちの結婚によってイングランドと帝国を味方につけ、ボヘミアの友好も得て、フランドルとブラバントの圧力をはねのけた。ゼーラントと南ホラントを解放し、ユトレヒト司教領を手中にし、フリース人を従えた。聖職者と貴族による課税の濫用をやめさせ、役人の不正には厳しく臨んだ。
1325年には、イングランド王妃イザベラが夫エドワード2世と寵臣デスペンサー父子に対する遠征を準備するのを助けた。このとき、王太子エドワード、のちのエドワード3世と娘フィリッパの婚約が取り決められた。娘マルグリットは神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の妃となった。1337年6月7日、ヴァランシエンヌで没した。その年の11月に百年戦争が始まった。
同じ年に亡くなった人物
- フェデリーコ2世 (シチリア王) (1337年没)
- Tino di Camaino (1337年)
- エレノア・ド・クレア (1337年)
- マンサ・ムーサ (1337年)
- ジョット・ディ・ボンドーネ (1337年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルム2世 (バイエルン公) (1417年没)
- マルグリット・ド・ブルゴーニュ (1374-1441) (1441年没)
- ジャン・スタブリンスキ (2007年没)
- ギュスターヴ・サンドラス (1951年没)
- ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル (1244年没)