伝記
マンサ・ムーサは、マリ帝国の9代目の王である。在位は1312年から1337年ごろとされる。アラビア語の文献ではマンサー・ムーサーの名で記録される。「マンサ」はマリンケ語で皇帝、あるいは王の中の王を意味し、「ムーサ」は預言者モーセと同じ名である。「カンガ・ムーサ」という呼び名も伝わり、これは「カンクの息子、ムーサ」の意で、カンクは母の名である。当時のマンディンカ族が母系制社会だったことを映すとされる。
祖父はアブー・バクル・ケイタといい、マリ帝国の開祖の兄弟だと伝えられる。父のファガ・ライエは歴史上で重要な役割を果たしていない。当時のマリには、王が巡礼や難行に出るときは摂政を立て、王が戻らなければ摂政を後継者とする習わしがあった。前王は大西洋の果てを探す探検に出る際にムーサを摂政に立て、船で旅立ったまま戻らなかったという。ムーサはこうして王位に就いた。即位後まもなく、将軍サラン・マンディアンの補佐を受けた。この将軍はガオを征服し、サハラの遊牧民を従わせて、帝国の権威を立て直した。
ムーサの名を高めたのは1324年のメッカ巡礼である。10トンを超える黄金をラクダで運ばせたといい、一行は家臣6万人、奴隷1万2千人以上と報告される。奴隷はそれぞれ4ポンドの金の延べ棒を持ち、家臣は絹の服を着て黄金の杖を携えた。費用や食料はすべてムーサが賄ったとされる。途中で立ち寄ったカイロでは莫大な黄金をばらまいたため、金相場が暴落し、インフレーションが10年以上続いたといわれる。この巡礼は周辺諸国にマリの富を知らしめた。こうした巡礼が可能だった背景には、西方のテクルールの征服や東方のハウサ諸国との境界までの領土拡大があった。
帰路の1325年、ムーサは自国の軍がガオを再び占領したとの知らせを聞き、遠回りしてガオに立ち寄った。そこでガオの王の二人の息子を人質として受け取り、宮廷に連れ帰って教育したという。敬虔なイスラム教徒だった王は、トンブクトゥやガオにモスクやマドラサを建てた。トンブクトゥの有名なモスクは、アンダルス生まれの文人サーヒリーをエジプトから招いて建てさせたと伝えられる。ニアニの王宮には、サーヒリーが接見の間を築いた。漆喰を塗り石のタイルで覆い、色とりどりのアラベスクのドームを載せた建物で、上の階の窓は銀、下の階の窓は金で飾られた。ムーサは喜び、褒美に1万2000ミスカールの砂金を与えたという。トンブクトゥは交易とイスラーム諸学の中心となり、その繁栄は地中海を越えて南ヨーロッパにも伝わった。1330年にトンブクトゥがモシ王国に攻め込まれると、ムーサはすぐに奪還し、石造りの城壁と常備軍で備えを固めた。
没年ははっきりしない。治世の長さから1332年と計算できるとも、1325年の巡礼から戻った直後に亡くなったともいわれる。一方、1337年にトレムセン攻略を祝う使節を送ってきたとの記録があり、この時点で存命だったと考えられる。後世の評価は分かれる。イスラーム圏では巡礼とトンブクトゥの繁栄により黄金伝説とともに記憶された。だが口頭伝承がムーサに触れることは少なく、帝国の富を浪費しマンデの伝統から逸れた人物と見られたためだとされる。ギニアの歴史学者ニアヌは、ムーサがカイロやメッカに巡礼者の宿泊所や使節の滞在所を建てたと指摘している。2010年にはマリ独立50周年に当たり、ムーサを記念する金貨も考案された。
同じ年に亡くなった人物
- フェデリーコ2世 (シチリア王) (1337年没)
- ギヨーム1世 (エノー伯) (1337年没)
- Tino di Camaino (1337年)
- エレノア・ド・クレア (1337年)
- ジョット・ディ・ボンドーネ (1337年没)
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