HISTORICAL PERSON · 1244年没

ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル

フランドル女伯・エノー女伯。夫フェランがブーヴィーヌの戦いで捕虜となった12年間、単身で統治し都市に租税免除特権を与えて経済発展を導いた。

生涯
1244年没
死亡地
フランス共和国(ノール県 / マルケット=レ=リール)
出生地
フランス共和国(ヴァランシエンヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(ノール県)

伝記

ジャンヌ・ド・コンスタンティノープルは、フランドル伯およびエノー伯で、のちにラテン皇帝となるボードゥアンと、マリー・ド・シャンパーニュの長女として、1194年から1200年の間に生まれた。1202年、父は第4回十字軍に参加するため故国を発ち、1204年にラテン帝国の帝位に就いた。母マリーは聖地を巡礼してから夫に合流しようとしたが、急死した。父ボードゥアンも1205年4月14日、アドリアノープルの戦いでブルガリア皇帝カロヤンと対峙している最中に行方不明となり、戦死か捕囚かは分からない。ジャンヌと妹マルグリットの教育は叔父のナミュール伯フィリップ1世が担ったが、1208年にフランス王フィリップ尊厳王に委ねられ、姉妹はパリで育てられた。

ジャンヌは、ポルトガル王子フェルナンドと結婚し、彼はフランドル伯フェランと呼ばれるようになった。帰国の途中、新婚夫婦はジャンヌの親戚のルイ王子に捕らえられた。ルイはアルトワを含む広い領土を手に入れようとしたのである。解放のためにエール=シュル=ラ=リスとサントメールの町を売り、フランドル伯夫妻はイングランド王ジョンや皇帝オットー4世とともに反フランスの連合に加わった。1213年、尊厳王はリールを攻めて火を放った。1214年7月27日のブーヴィーヌの戦いで尊厳王は決定的に勝ち、フェランは捕らえられた。以後12年間、ジャンヌは単身で統治した。リールの城壁の再建を命じたが、フランス軍の攻撃を恐れて、最終的にはリールを王に差し出した。1221年にはブルターニュ摂政ピエール・モークレールとの再婚を目指したが、尊厳王が反対した。

妹マルグリットは1213年にアヴェーヌ領主ブシャールと結婚した。尊厳王は、ブシャールが副助祭の叙階を受けていると教皇に伝え、1215年に結婚の無効が認められたが、2人は無視して逃亡し、息子ジャンとボードゥアンが生まれた。1219年、ジャンヌに対抗してフランドルを騎行中にブシャールは逮捕された。2年後に彼はマルグリットと別れることに同意して解放され、1223年の終わりにマルグリットはギヨーム・ド・ダンピエールと結婚した。

1225年、トゥルネーとヴァランシエンヌの間の森に住む隠者が、自分は20年も囚われていたボードゥアンだと名のり出た。フランドルとエノーの多くの貴族や諸都市が支持し、ジャンヌはただ1つ忠実だった町モンスへの逃亡を余儀なくされた。ルイ8世は2万リーブルと引き換えに軍を動かすことに同意した。5月30日、ペロンヌで王は隠者に過去を尋ねたが、隠者は騎士に叙された時と場所も、婚礼の夜も思い出せなかった。王は詐欺師と確信し、3日以内に立ち去るよう命じた。隠者はヴァランシエンヌへ逃げたが、ブザンソン近くで捕らえられ、ジャンヌのもとへ連れ戻された。殺さないと約束していたにもかかわらず、ジャンヌは彼を2頭の犬の間に置いてさらし台にさらし、リールの城門から吊るして処刑した。反乱した町には重い税を課し、これでフランス王への債務を払えるようになった。

1226年のムラン条約で、フェランの身代金は5万リーブルと定められた。ルイ8世が11月8日に亡くなったあと、王太后ブランシュと新王ルイ9世は、身代金を2万5000リーブルに減らし、1227年1月にフェランを釈放した。ジャンヌは1244年12月5日に亡くなった。治世の間、フランドルの諸都市に租税免除の特権を含む多くの憲章を与え、経済の発展に有利な政策を行った。托鉢修道会、ベギン会、ヴィクトリーヌ会、病院共同体の発展にも大きな役割を果たした。

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