伝記
ジョット・ディ・ボンドーネは、中世後期のイタリアの画家、建築家で、単にジョットと呼ばれることが多い。生年は1267年ごろとされ、没年は1337年1月8日である。その絵画は後期ゴシックに分類されるが、イタリア・ルネサンスへの先鞭をつけた偉大な芸術家と見なされている。ビザンティン様式が支配的だった西洋絵画に、現実的で三次元的な空間表現と、人物の自然な感情表現をもたらしたことから、「西洋絵画の父」とも呼ばれる。同時代のジョヴァンニ・ヴィッラーニは、彼を「この時代における最大の巨匠」と書き残し、後世のヴァザーリも、ビザンティン美術を打ち壊し、忘れられていた絵画技術を蘇らせた画家と絶賛した。
ただし、生涯についてはほとんど記録が残らず、生年月日、生誕地、没地、風貌、徒弟期間、作品の依頼主など、多くが論争の的になっている。生誕地については、フィレンツェ近郊のロマニャーノまたはロミニャーノの丘の上の農家で生まれたという古い説があり、1850年以降にヴェスピニャーノ説も唱えられたが、これは根拠のない主張とされる。近年では、鍛冶屋の息子としてフィレンツェで生まれたとする研究も発表された。父の名はボンドーネで、公式記録には「裕福な人物」とある。「ジョット」は本名とされることが多いが、アンブロジョットやアンジェロットの略称だったとする説もある。没年は、詩人アントニオ・プッチが詠んだ詩に、70歳で亡くなったと書かれていることを根拠とする。ただし、「70」は韻を踏むために選ばれた可能性もある。
ヴァザーリの伝記によれば、ジョットは誰からも愛される快活で知的な羊飼いの少年で、フィレンツェの巨匠チマブーエが、岩に描かれた羊が生きているようだったのを見て、弟子にしたという。チマブーエの留守中に、ジョットが作品にハエを描くと、戻った師が本物と思って何度も筆で追い払おうとした逸話や、教皇の使いに求められて、コンパスで描いたかのような正確な円を赤い絵の具で描いてみせた逸話も伝わる。しかし現在では、多くの学者が、これらの徒弟時代の話は伝説にすぎないと考えている。チマブーエの弟子ではないと記す古い記録も残るからである。
1287年ごろ、20歳前後で通称シウタという女性と結婚し、8人以上の子をもうけ、そのうちの一人フランチェスコは画家になった。1297年から1300年ごろはローマで活動し、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂には、1300年の聖年のために描かれた壁画の一部が収められている。1301年から1304年の記録によれば、フィレンツェに大邸宅を構え、大きな工房を経営して、イタリア各地から制作を依頼されていたと考えられる。パドヴァやリミニにも招かれた。アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂上堂の壁画については、彼の作かどうか、意見が大きく分かれている。
彼の代表作は、1305年ごろに手がけたパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の装飾画である。礼拝堂は、エンリコ・デッリ・スクロヴェーニが一族の礼拝所兼墓所として建てた。壁画は37の場面から成り、聖母マリアとキリストの生涯を三段に描き、正面の壁には『最後の審判』がある。人物は類型化されておらず、綿密な観察に基づく三次元的な表情とポーズで描かれ、衣服も自然な形と重さを持つ。記録によれば、彼は完成後の1334年、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に新設される鐘楼の設計を任された。
同じ年に亡くなった人物
- Tino di Camaino (1337年)
- フェデリーコ2世 (シチリア王) (1337年没)
- ギヨーム1世 (エノー伯) (1337年没)
- マンサ・ムーサ (1337年)
- エレノア・ド・クレア (1337年)
同じ地域に関係する人物
- Pedro Alvarez de Toledo, Marquis of Villafranca (1553年没)
- フェルディナンド・デ・メディチ (大公子) (1713年没)
- フィリッピーノ・リッピ (1504年没)
- ロレンツォ・モナコ (1425年没)
- イレーネ・ディ・グレチア (1974年没)