伝記
ラモン・ムンタネーは、1265年にアラゴン=カタルーニャ連合王国のアルト・アンプルダー郡、パララーダに生まれた兵士であり、年代記作家である。ジュアンとセス・ファブレガスの息子である。9歳のころには父親からアラゴン王ハイメ1世やカスティーリャ王アルフォンソ10世について教わった。1276年にはおそらく将軍の従者としてフランスに向かい、1281年1月末にはモンペリエにいて、当時13歳だったハイメ、のちのハイメ2世に仕えていた可能性がある。1285年にフランス軍がパララーダを破壊しており、生家もこのとき壊されたかもしれない。以後は故郷に帰らなかった。
1286年11月から翌年3月にかけて、ラウリーアのルジェ将軍が指揮するメノルカ島の征服に加わった。その後はマヨルカ島に落ち着き、1287年から1300年まで島の市民となった。1300年には傭兵隊長ルジェ・ダ・フローの軍の一員としてシチリア島へ渡り、シチリア晩祷戦争の過程で起こった同年12月のメッシーナの戦いでは、この町の防御を受け持った。1302年にはルジェ・ダ・フローの軍とともに小アジアの東ローマ帝国へ赴いた。この軍はアラゴン人とカタルーニャ人の傭兵からなる軽歩兵で、アルモガバルスとして知られ、コンスタンティノープルに拠点を置いて東ローマ帝国を支援していた。1303年9月に東ローマ帝国を離れ、1306年7月にはガリポリの防御に加わったが、その後この傭兵団を去った。
1309年には結婚のためにカタルーニャへ戻る許可を求めたが、同年の中ごろにはシチリア島で、シチリア王フェデリーコ2世からジェルバ島とケルケナ諸島の統治を命じられた。以後1315年まで、チュニジア沖でこの任務にあたった。1311年の春には短期間だけ島を離れ、バレンシアで妻をめとると、数週間後には家族とともにジェルバ島へ戻った。マルティとマカリの2人の息子と、娘カテリーネを得た。1315年にイベリア半島へ戻る際には、生後数週間のジャウメ、のちのマヨルカ王に付き添って北カタルーニャのペルピニャンへ向かい、執事としてその世話を担った。カターニアでこの幼子を受け取り、乳母を3人乗せ、武装した兵120人に昼も夜も守らせて出航したとされる。途中のトラーパニでは、ナポリ王ロベルトが幼子を奪う命令を出したと知り、さらに兵を雇ったとムンタネーは記している。船は万聖節の日にサロウに着き、バルセロナではハイメ2世が一行を迎えた。
少なくとも1316年から1320年はベルナト・ダ・サリスの代理人を務めた。1325年5月15日に年代記を書きはじめ、バレンシアの農場家屋で3年がかりで書いた。この時期には高品質の布地の貿易にも携わり、バレンシアの市政参事に選ばれている。1329年6月にはマヨルカ島へ赴いたが、1331年にはバレンシアの市政参事に再選された。1332年には妻や娘とともにマヨルカ島へ移り、ジャウメ3世に仕えた。その後はイビサ島の荘官となり、1336年にイビサ島のアイヴィーサで世を去った。
ムンタネーの年代記は、4つある「カタルーニャの偉大な年代記」のひとつで、ほかの3つはハイメ1世の自伝、ベルナト・ダスクロットの年代記、ペドロ4世の年代記である。歴史学者は13世紀から14世紀の連合王国の軍事的・政治的な事柄を、これらを通して読み解いている。年代記は1558年にバレンシアで初めて印刷され、1844年にはドイツのシュトゥットガルトでカール・ランツが出版した。物語はしばしば冗長で、無批判かつ利己的であるものの、史実を忠実に、鮮やかに描いているとされる。
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