伝記
ジャン=バティスト=ガブリエル=ジョアシャン・ドーセは、1916年10月19日にフランスのトゥールーズで生まれた免疫学者、医師である。4人きょうだいの末っ子で、父は医師、母は専業主婦であった。第一次世界大戦が終わると一家はビアリッツに移り、少年期の大半をそこで過ごした。父はバイヨンヌの病院の医長を務めており、この立場が少年に強い印象を与えたとされる。学校へは通わず、母と、折々に家を訪れる家庭教師から教育を受けた。11歳でパリに移り、15歳でリセ・ミシュレに入って正規の学校教育を始めた。数学のバカロレアを取得したのち、父に勧められてパリ大学で医学を学んだ。パリの病院の外来実習生となった19歳のころに、両親を相次いで亡くしている。
その後、パリの病院の研修医試験に一度は失敗し、再挑戦の準備をしているときに第二次世界大戦が始まった。軍に召集されて北イタリアに1年ほど送られ、1940年にパリへ戻ると猛勉強の末に試験に合格した。ほどなく自由フランス軍に加わり、北アフリカで救急搬送の任に就いた。最初はモロッコに、のちに戦闘の激しいチュニジアに配属され、負傷兵に数多くの輸血を行ったことが血液学との最初の出会いになった。戦争が終わりに近づいた1944年にパリへ戻り、サン=タントワーヌ病院の地方輸血センターで働いた。
戦後はパリの病院の研修医として、荒廃した病院の改革を求める急進的な医師の集まりを作った。この活動のため、国民教育省の大臣官房の顧問に任じられ、医師のロベール・ドブレとともに医学教育の改革委員会の設置を政府に促した。この結果、フランスで初めて病院と大学が結び付けられ、医師が医学生を教えることも義務づけられた。1958年のドブレ改革として知られる。
研究者としては、輸血法を開発したマルセル・ベシス教授のもとで免疫血液学に携わった。1948年にボストンの小児病院に研修医として赴き、血液学の研究室で4年ほど働いたのち、1952年にフランスへ戻った。ベシスとの研究で、抗原を提示する最初の白血球を見いだしたが、公式に報告されたのは1958年である。同年には、MACと名付けた白血球凝集抗体を発見した。名称は、研究に血液を提供した供血者たちの名前の頭文字にちなむ。1960年から1965年には、臓器移植の技術と、新しい組織を受け入れる体の仕組みの改善に取り組んだ。
1968年にフランス国立医学研究所の所長となり、1978年にはコレージュ・ド・フランスの実験医科学の教授を務めた。1970年にカール・ラントシュタイナー記念賞、1977年にガードナー国際賞とロベルト・コッホ賞、1978年にウルフ賞医学部門を受け、1980年にバルフ・ベナセラフ、ジョージ・スネルとともに、主要組織適合遺伝子複合体の研究によりノーベル生理学・医学賞を受けた。その賞金とフランスのテレビ局からの助成金で、1984年にヒト多型研究センターを創設した。この施設は、のちに彼の名を冠した財団に改称された。1963年にローズ・マヨラルと結婚し、2人の子をもうけた。2009年6月6日、スペインのマヨルカ島で92歳の生涯を閉じた。著書の邦訳に『生命のつぶやき HLAへの大いなる旅』がある。
同じ年に亡くなった人物
- Luise Danz (2009年没)
- マリー・グローリー (2009年没)
- イデア・ヴィラリーニョ (2009年没)
- ロザンナ・スキャフィーノ (2009年没)
- エド・マクマホン (2009年没)
同じ地域に関係する人物
- ベルト・ケンプフェルト (1980年没)
- ジャウメ2世 (マヨルカ王) (1311年没)
- ジーン・バテン (1982年没)
- ニコ (1988年没)
- スティーヴン・ゲイトリー (2009年没)