伝記
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将である。出自には諸説があり、本人は橘氏の後裔を称した。『太平記』は、河内の金剛山の西、現在の大阪府千早赤阪村に居館を構えたと伝える。母は橘遠保の末裔である橘盛仲の娘とされ、息子には正行、正時、正儀がいる。出自をめぐっては、河内の土豪とする説のほか、北条得宗家に仕えた御家人や被官とする説、幕府に従わない悪党のような荘官武士とする説があり、結論は出ていない。
元亨2年(1322年)、正成は得宗・北条高時の命により、淀川河口の渡辺党を討ち、紀伊の安田庄司の湯浅氏を殺し、南大和の越智氏を攻め滅ぼしたと伝えられる。ただ、この話を載せる史料の多くは、江戸時代に広まった注釈書の影響を受けており、信憑性には疑問が残る。研究者の一人は、これらの戦いを実際にあったことと考え、このころの正成は幕府に忠実な「番犬」として畿内に目を光らせていたとみている。
その後、正成は後醍醐天皇の倒幕計画に加わった。仲介したのは真言宗の僧文観と醍醐寺報恩院の道祐とされる。元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉の若松荘を、正成は所領として得た。4月に計画が幕府に知られ、8月に天皇が笠置山に逃れて挙兵すると(元弘の乱)、正成も笠置山に参向した。幕府は彼を「悪党楠木兵衛尉」として追及し、9月、六波羅探題は若松荘を没収した。笠置山で敗れた天皇は捕えられたが、正成は赤坂城に立てこもって幕府軍と戦った。幕府軍は一日で決着がつくと見たが、正成は少ない兵で耐えた。敵が近づけば弓矢で応じ、堀に手をかければ偽の塀を切り落とし、大木や大石を投げ、熱湯を浴びせた。急造の城では長期戦は難しいと判断し、10月21日の夜、城に自ら火を放って幕府軍に奪わせた。幕府は城の大穴で見分けのつかない焼死体を20、30体見つけ、正成とその一族だと思い込んで、11月に関東へ引き上げた。正成はしばらく行方をくらまし、同年末、護良親王から左衛門尉を与えられた。
元弘2年(1332年)4月3日(12月とする説もある)、正成は湯浅宗藤の守る赤坂城を襲った。城に兵糧が少なく、宗藤が領地から人夫500人から600人に兵糧を運び込ませると聞くと、その道中を襲って兵糧を奪い、人夫や警護の兵を自分の兵と入れ替え、空の俵に武器を仕込んだ。楠木軍は難なく城内に入り、俵から武器を出して鬨の声を上げ、城外の軍勢も同時に木戸を破った。宗藤は戦わずに降伏し、正成は赤坂城を奪い返した。勢いづいた楠木勢はたちまち和泉と河内を制し、5月17日には摂津の住吉と天王寺に進んで渡部橋の南に布陣した。京は大騒ぎとなり、六波羅探題は5月20日に5,000の軍勢を京から出した。
正成は千早城の戦いで大規模な幕府軍を引きつけ、日本全土の反乱を誘って鎌倉幕府の打倒に貢献した。建武の新政では、最高政務機関である記録所の寄人に任じられた。建武2年(1335年)8月25日には『法華経』を写し終え、奥書に「橘朝臣正成」と署名している。足利尊氏が反旗をひるがえした後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。明治以降は「大楠公」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。湊川神社の主祭神でもある。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・オブ・エルサム (1336年没)
- ブザン (チャガタイ家) (1336年)
- ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ (1336年没)
- ランツェロット・マロチェロ (1336年)
- チーノ・ダ・ピストイア (1336年)