HISTORICAL PERSON · 1336年没

後伏見天皇

第93代天皇で伏見天皇の第一皇子、持明院統。11歳で即位し、大覚寺統の圧力で3年ほどで譲位した。のち院政を敷いて両統迭立の取り決めを試みたが失敗した。皇子は光厳天皇と光明天皇。

生涯
1336年没
死亡地
日本(滋賀県 / 日本)
出生地
日本(日本)
出典
世界地図
日本(滋賀県)

伝記

後伏見天皇は、日本の第93代天皇(在位1298年〜1301年)である。名は父の伏見天皇に「後」を冠したもので、諱は胤仁という。1288年4月5日(弘安11年3月3日)、持明院統の伏見天皇の第一皇子として生まれた。母は参議五辻経氏の娘の経子だが、中宮の西園寺鏱子(永福門院)の養子となり、その手元で育てられた。1289年、数え2歳で立太子し、1298年、父からの譲位を受けて11歳で即位した。在位中の元号は永仁と正安で、政治は父の伏見上皇が院政によって執った。

2代続けて持明院統から天皇が出たため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、1301年、後伏見は大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子である後二条天皇に譲位した。このとき14歳で上皇となったが、まだ皇子がなく、次の皇太子には異母弟の富仁親王(のちの花園天皇)が立った。1308年に後二条天皇が急死すると、その弟の花園天皇が即位した。しばらくして伏見上皇が出家して院政をやめたため、後伏見がこれを引き継ぎ、1313年から1318年の間、院政を行った。この間、幕府と折衝し、持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出すという取り決めを結ぼうとしたが、失敗に終わった。

1318年、花園天皇が在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位した。皇太子には大覚寺統の邦良親王が立ち、後伏見の皇子である量仁親王(のちの光厳天皇)はその次の皇太子とすることが決められた。1326年に邦良親王が病死し、幕府の裁定でようやく量仁親王が皇太子に立ったが、後醍醐天皇は譲位に応じず、1331年に幕府に反旗を翻して捕らえられた。幕府の判断で皇太子の量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見はしばらく院政を行った。後伏見は、息子を即位させるための助けを賀茂の神に願う有名な文を書いたとされ、この願いは結果として叶ったことになる。

1333年、足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して京都の六波羅探題を襲撃すると、後伏見は光厳天皇と花園上皇とともに、北条仲時らに擁されて東国へ逃れようとした。しかし道中で仲時らは討ち死にし、両上皇と天皇は捕らえられて京都へ連れ戻された。光厳天皇は廃位され、後伏見は出家して剃髪し、行覚と号した。1336年5月17日(延元元年4月6日)、49歳で崩御した。

女御は西園寺公衡の長女の西園寺寧子(広義門院)である。第一皇女の珣子内親王は後醍醐天皇の中宮となり、第三皇子の量仁親王は光厳天皇、第九皇子の豊仁親王は光明天皇となった。第一皇子の尊胤法親王や第六皇子の承胤法親王、第八皇子の亮性法親王のように天台座主となった皇子もいれば、第二皇子の法守法親王のように仁和寺の禅河院御室となった皇子、第七皇子の長助法親王のように英彦山座主となった皇子もいる。陵は京都市伏見区深草坊町の深草北陵に治定されており、持明院統の歴代が葬られていて、深草十二帝陵とも呼ばれる。1936年5月25日には六百年式年祭が行われ、皇霊殿で拝礼があったほか、陵所でも祭典が営まれて勅使が遣わされた。後の字の付く天皇のうち、その字を除いた名の天皇が直前に即位していて代数も連続しているのは、後伏見天皇だけである。

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