伝記
フィリッポ1世・ディ・サヴォイア=アカイアは、1278年に生まれ、1334年9月に没したピエモンテ領主で、アカイア公でもあった。サヴォイア家の分家であるサヴォイア=アカイア家の始祖にあたる。ピエモンテ領主トンマーゾ3世とギヨンヌ・ド・ブルゴーニュの長男で、年代記家パンゴンによればスーザの生まれという。4人の弟がおり、ピエールはリヨン大司教、トンマーゾは参事会員、アメは助祭長、ギヨームは修道院長となった。父の遺言で唯一の相続人とされ、弟たちに分け与える所領を整える務めも負った。
1282年に父の跡を継いでピエモンテ領主となったが、まだ幼かった。1286年に母がピエモンテをサヴォイア伯に託し、伯が後見人となったものの、伯はこの地を自分の領地とみなすようになった。成人した1294年、フィリッポは叔父にあたる伯の後見から抜け出そうとして訴訟を起こし、仲裁によって領主の地位を取り戻した。
1300年の聖年にローマで、20歳ほど年上のアカイア女公イザベル・ド・ヴィルアルドゥアンと出会い、結婚の話が進んだ。叔父の伯からの独立を得る手段でもあったらしい。アカイアの宗主であるナポリ王カルロ2世は、この縁組を知らされておらず反対したが、教皇が介入して、1301年2月12日にローマで結婚式が行われた。この結婚でフィリッポはアカイア公となり、一人娘マルゲリータが生まれた。夫妻はピエモンテに摂政会議を置いたのち、1301年末ごろにアカイアのクラレンツァに上陸したとされる。到着は好意的に迎えられたが、サヴォイアやピエモンテから連れてきた側近に役職を与えたり、渡航の費用を取り戻そうとしたりしたため、フィリッポは高圧的な人物とみなされ、貴族たちと対立した。年代記は彼を「ロンバルディアの暴君たち」にたとえている。
1302年(1304年ともいう)にはスコルタのギリシア人領主らが反乱を起こした。フィリッポは貴族たちの怒りを鎮めようとしたが、1304年には議会を受け入れざるを得ず、コリントスで議会が開かれて、大きな馬上試合も催された。同じ年、家臣を率いてエピルスへ遠征したが、決着はつかず、のちにエピルスの専制公から多額の金を受け取って、介入をやめた。やがて宗主カルロ2世との関係が悪化して、夫妻の権利は取り消された。夫妻はピエモンテに戻って別れ、1307年にフィリッポはアカイアに対する主張を捨てたが、カルロ2世はアカイアを没収して、自分の息子のターラント公フィリッポに与えた。フィリッポ1世はその後もアカイア公の称号を使い続けた。
1311年、サヴォイア伯の影響から逃れようと、ヴィエノワのドーファンと同盟し、翌1312年にドーファン家のカトリーヌ・ド・ラ・トゥール・デュ・パンと再婚した。ドーファンの遺言の執行人の一人にも選ばれている。カトリーヌとの間には、ピエモンテを継いだジャコモ、モーリエンヌ司教アメデーオ、トリノ司教トンマーゾ、タロンテーズ大司教エドアルドら多くの子が生まれ、アイモーネはサヴォイア十字軍に参加した。最初の妻との娘マルゲリータは、1324年にマラヴァル領主ルノー・ド・フォレと結婚している。ほかに数人の庶子もいた。1334年にピネローロで死去し(9月25日とされる)、ピエモンテは息子のジャコモが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- オットー4世 (バイエルン公) (1334年没)
- タルマシリン (1334年没)
- サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー (1334年没)
- ヨハネス22世 (ローマ教皇) (1334年没)
同じ地域に関係する人物
- チェーザレ・ロンブローゾ (1909年没)
- トンマーゾ・サルバドーリ (1923年没)
- マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ (1855年没)
- ヴァルター・シェレンベルク (1952年没)
- エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公) (1580年没)