伝記
タルマシリンは、チャガタイ・ハン国のハンである。1294年ごろに生まれ、ドゥアの子で、先にハンとなったケベクの弟にあたる。ハンとしての在位は1331年から1334年とされるが、1326年からとする説もある。名のタルマシリンは、仏教に由来するサンスクリットの「ダルマシュリー」が原形と考えられ、はじめは仏教徒だったらしい。のちにイスラム教に改宗して、アラーウッディーンという尊称を名乗った。ケベクと同じくカシュカ川流域に住み、テュルク系の言葉を話したという。
1326年からはガズナを兄ケベクのために治めていた。同じ年の秋にジャイフーン川を渡り、イルハン朝支配下のホラーサーン地方に侵入しようとしたが、ガズナの近くで、イルハン朝のアミール・チョバンの子の軍に敗れて退却した。1327年から1328年にかけて、タルマシリンの軍はインドに侵入し、トゥグルク朝の中心部に近いバダーウーンに達した。トゥグルク朝から和平の代償として金や宝石を受け取り、帰りにインダス川流域やグジャラート地方で略奪を行った。この行軍は侵攻が目的だったとする説のほか、トゥグルク朝に援助を求めるために行われたとする説もある。
1329年ごろにイスラム教に改宗し、1331年ごろにハンの位に就いた。即位の事情には不明な点が多い。当時のチャガタイ・ハン国は、モンゴルの伝統的な信仰と慣習を守ろうとする守旧派と、イスラム法による新しい体制を築こうとする改革派が争っており、タルマシリンは、改宗しながらも伝統的な慣習を維持する中間の立場をとっていた。旅行家イブン・バットゥータは、彼がたいへん熱心なイスラム教徒で、将兵にも改宗を勧め、公の礼拝を命じたと伝える。軍が住民から略奪することを禁じ、同時代の記録はその公正さを強調している。トゥグルク朝とは友好的な関係を結び、報復の侵攻を避けることができた。だがイスラム国家への遠征は、国内のテュルク系貴族の反発を招き、守旧派からも非難された。元の朝廷には、貢ぎ物を添えた書簡も送っている。
イリ地方の遊牧民は、イスラム教を信仰するタルマシリンを、モンゴルの伝統的な法であるヤサに背く者と非難した。タルマシリンは、毎年の貴族の集会を開かず、在位中にアルマリクを一度も訪れなかったとして、ブザンに責められた。イスラム法を導入したことも、ヤサを重んじる遊牧民との対立を招き、モンゴル人に農耕をさせようとしたともいわれる。遊牧民はブザンとジンクシを擁立し、東部の将軍たちはブザンを支持して、1334年、タルマシリンは廃位され、ガズナへ逃れようとして捕らえられ、春か夏にケシュかナフシャブの近くで殺害されたとされる。埋葬地もナフシャブとも、サマルカンド近くの村ともいわれる。跡はブザンが短期間継いだ。イブン・バットゥータはブハラ近郊で、ブザンらの攻撃から逃げる彼に会っている。最期についてはケベクの子ヤンキに捕らえられて処刑されたという話のほか、インドを経てシーラーズに亡命したという話も伝えている。イスラム教徒の記録は、東アジアにイスラム教を広めようとした努力をたたえ、彼をたいへん好意的に描いてきた。ハン国はその後、イスラム教徒の多い西のトランスオクシアナと、仏教的な東のモグーリスターンに分かれたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー (1334年没)
- ヨハネス22世 (ローマ教皇) (1334年没)
- フィリッポ1世・ディ・サヴォイア=アカイア (1334年没)
- オットー4世 (バイエルン公) (1334年没)
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