HISTORICAL PERSON · 1333年没

ムハンマド4世 (ナスル朝)

ナスル朝グラナダ王国の第6代君主。父イスマーイール1世の暗殺で10歳で即位し、内戦を1328年に終結させた。カスティーリャとの戦争でマリーン朝の支援を求め、1333年に暗殺された。

生涯
1333年没
死亡地
スペイン王国(マラガ)
出生地
スペイン王国(グラナダ県 / グラナダ)
出典
世界地図
スペイン王国(グラナダ県)

伝記

ムハンマド4世は、1315年4月14日にグラナダで生まれ、1333年8月25日に没したナスル朝グラナダ王国の第6代君主である。父は在位1314年から1325年のイスマーイール1世で、その長男として生まれた。ナスル朝はイベリア半島で最後のイスラーム国家で、北のカスティーリャ王国と、モロッコのマリーン朝という二つの大きな隣国に挟まれていた。

1325年7月8日、父は親族のムハンマド・ブン・イスマーイール(同名の別人)に暗殺された。この刺客と兄弟は即座に捕らえられて殺されたが、同じ日に10歳のムハンマドがスルターンと宣言された。宰相は廷臣たちを呼び集めて忠誠を誓わせ、父方の祖母ファーティマも支持を表明した。ファーティマは以前のナスル朝のスルターンの子孫で、その血統が即位に正当性を加えた。幼いスルターンは大臣や祖母の影響下に置かれ、後見は家庭教師のアブー・ヌアイム・リドワーンと祖母に委ねられた。宰相は暗殺の際に負った傷が原因で1か月後に死に、後任にはイブン・マフルークが就いた。

アル=グザート・アル=ムジャーヒディーン(北アフリカ出身者の軍)の司令官ウスマーンは、やがて他の大臣を遠ざけて独裁的に振る舞うようになった。1326年12月に対立が頂点に達し、ウスマーンの部隊がグラナダを占領してイブン・マフルークらがアルハンブラ宮殿に籠城した。イブン・マフルークが対抗の司令官を指名すると部隊はウスマーンを見捨て、彼の下には家族とわずか1,000人の従者が残った。ウスマーンはアルメリアに逃れ、1327年1月下旬にムハンマド4世の叔父ムハンマド・ブン・ファラジュを対抗のスルターンに擁立して、ナスル朝は内戦に陥った。ウスマーンがカスティーリャ王アルフォンソ11世の支援を得たのに対し、ムハンマド4世はマリーン朝に救援を求め、ロンダやマルベーリャ、翌年にはアルヘシラスの割譲を強いられたとみられる。その間に13歳となった彼は自ら統治権を行使し始めた。1328年7月か8月にウスマーンと和解し、11月6日にはイブン・マフルークを殺害させて、内戦を終わらせた。ウスマーンは司令官に再任され、1330年に死ぬまでその地位にあり、スルターンを僭称した叔父を北アフリカへ送り出した。

その後、アラゴン王アルフォンス4世が1329年2月6日のタラソナ条約でアルフォンソ11世と共同攻撃を取り決め、両国は1330年にナスル朝へ侵攻した。農村は荒れて食糧難となり、1331年2月、ムハンマド4世は毎年貢納金を払う条件でカスティーリャと平和条約を結んだ。しかしアルフォンソ11世がナスル朝への食糧の輸出を止め、アラゴンとの戦争も続いたため、1332年9月、彼は支援を求めてフェズのマリーン朝の宮廷へ向かった。スルターンのアブル=ハサン・アリーは1333年初頭、5,000人の軍をアルヘシラスへ派遣した。6月にはマリーン朝がカスティーリャ支配下のジブラルタルを降伏させたが、その後アルフォンソ11世軍に包囲され、ムハンマド4世は救援に向かって交戦した。結局、8月24日に1331年の条約を再確認する停戦が成立したが、翌25日、彼はウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーの息子たちの指図によって暗殺された。マリーン朝との同盟かカスティーリャへの友好的な態度が不満を招いたためとされる。後継者には弟のユースフ1世が就いた。

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