伝記
シュムエル・イブン・ナグレーラは、993年にメリダで生まれ、1056年に没した、イスラーム支配下のアンダルスのユダヤ人である。シュムエル・ハ=ナギドの名でも知られ。政治家、軍人、学者、言語学者、詩人として活躍し、グラナダ王国の宰相として軍を率い、同地のユダヤ人共同体の指導者でもあった。ユダヤ人でありながらイスラームの王国で異例の高みに上り、スペイン中世のユダヤ文化の黄金期を代表する人物とされる。
裕福なユダヤ商人の家に生まれ、コルドバで育ったともいわれる。ユダヤ法、天文学、論理学、聖書注解など幅広い教育を受け、ヘブライ語、アラビア語、ラテン語、ベルベル語のひとつに通じたタルムード学者となった。師は、コルドバのカリフ国のラビ共同体の長となったハノク・ベン・モーセである。後ウマイヤ朝が内乱で崩壊したとき、シュムエルはまだ20歳ほどであった。ベルベル人の蜂起があった1013年ごろ、あるいはアリー・イブン・ハンムードがコルドバを奪った1016年以後にコルドバを離れ、港町マラガに移り住んだ。香辛料商人、あるいは食料品商として暮らしながら、余暇をタルムードと文学の研究にあてた。
のちにグラナダへ移り、宰相の書記官が病に倒れたのを機に宮廷に仕えることになり、まもなくその職に就いたと伝えられる。12世紀の書物『セフェル・ハ=カバラー』が伝える話では、シュムエルの店は宰相アブー・アル=カースィム・イブン・アル=アリーフの邸宅の近くにあり、宰相の女奴隷が手紙の代筆を頼んだのがきっかけで宰相に知られた。やがて徴税官、書記官を経て、ハッブース王のもとで国の宰相補佐になったという。1027年、34歳のときにユダヤ人共同体のナギド(指導者)に任ぜられた。アンダルスでこの称号を得たのは彼が最初であった。
1038年にハッブースが死ぬと、シュムエルは長男ブルッキーンではなく、人々の支持が厚い次男バーディースが跡を継ぐよう取り計らった。その見返りに、バーディースはシュムエルを宰相兼総司令官に任じた。1037年に宰相となったとする記述もある。以後約18年にわたり、自ら戦場に出たとも、戦略面で指導したともいわれ、セビーリャ、カルモナ、キリスト教徒の傭兵らとの戦いでグラナダを勝利に導き、国の安定を保った。ユダヤ人は通常、イスラーム国家で公職に就けなかったため、被保護民のシュムエルが軍を率いたことは非常に異例であった。シュムエルは貧しい人々を一貫して支え、バビロニアや北アフリカのユダヤ教学院を援助し、グラナダでも学院を指導した。ヘブライ語文法の論争ではヨナ・イブン・ジャナーハと対立し、ヘブライ語文献学の発展にも寄与した。
詩人としても多作で、戦争詩、個人的な哀歌、風刺詩、恋愛詩、哲学的な思索、教訓詩など多様な作品を残した。アラビア語の詩に親しんだ経験をもとに、主に典礼用の言語となっていたヘブライ語の叙事詩に新しい作風をもたらし、官能的な表現も可能にした。『ベン・ティリーム』(世俗詩と戦争詩)、『ベン・ミシュレイ』(押韻した格言)、『ベン・コヘレト』(哲学的・教訓的な詩)の三つの詩集が主要作品で、息子ヨセフがまとめた。1056年にシュムエルが没すると、ヨセフが宰相とユダヤ人共同体の指導者の地位を継いだが、政治的な手腕に欠け、不人気であった。緊張は高まり、1066年にグラナダのユダヤ人が虐殺され、ヨセフも暗殺された。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝) (1056年没)
- Herman II (1056年没)
- テオドラ (東ローマ女帝) (1056年没)
同じ地域に関係する人物
- ボードゥアン1世 (ベルギー王) (1993年没)
- マリアナ・ピネダ (1831年没)
- ルイス・デ・ナルバエス (1550年代没)
- ナスル (ナスル朝) (1322年没)
- ムハンマド8世 (1431年没)