HISTORICAL PERSON · 1333年没

ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)

ポーランド王。短身王と呼ばれ、分裂期を収拾して王国を再統合し、1320年にクラクフで戴冠した。晩年はドイツ騎士団と戦い、1331年のプウォフツェの戦いで騎士団軍の攻勢を止めた。

生涯
1333年没
死亡地
ポーランド共和国(マウォポルスカ県 / クラクフ)
出生地
ポーランド共和国(クヤヴィ)
出典
世界地図
ポーランド共和国(マウォポルスカ県)

伝記

ヴワディスワフ1世ウォキェテクは、分裂していたポーランドを再統合へ導き、1320年に国王として戴冠した君主である。1260年か1261年ごろに、ウェンチツァ、シェラツ、ドブジン、クヤヴィの公カジミェシュ1世の三男として生まれ、母は三番目の妻でオポーレ公の娘エウフロジナである。異母兄にレシェク2世とジェモミスウがいる。ウォキェテクという呼び名は「短身」を意味するとされ、15世紀の歴史家ヤン・ドゥゴシュがそう説明した。近年、墓を調べた調査団が、身長は約1.5メートルと推定したが、この呼び名が背の低さを指すのか、領土の小ささを皮肉ったものなのかは確かでない。なお、生前の国王が王名に数を付けた記録はなく、「1世」も「4世」も後世の歴史家があてはめた呼称にすぎない。

1267年に父が亡くなったとき、彼は7歳ほどで、兄弟とともに遺領を分けて相続し、クヤヴィ公国を得た。兄弟たちは子を残さないまま相次いで亡くなり、彼はその領地を自分のものにしていく過程で、ポーランド王国の再統合を目指すようになった。1288年にポーランド大公のレシェク2世が子のないまま没すると、従弟のボレスワフ2世と組んでヴロツワフ公ヘンリク4世と争ったが、クラクフ市民の寝返りでヘンリクがクラクフを占領した。その後、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世が大公位を得て、1295年に王となったが、1296年に暗殺されると、ヴワディスワフはヴィエルコポルスカとポメレリアの相続を主張した。しかしボヘミア王ヴァーツラフ2世にマウォポルスカを明け渡すことになり、ヴィエルコポルスカもグウォグフ公ヘンリク3世に敗れて、彼は国外への亡命を余儀なくされた。

ところが、ボヘミアによる支配はうまくいかず、ヴァーツラフ2世と息子ヴァーツラフ3世が相次いで急死して混乱に陥った。ヴワディスワフは1305年に帰国して、自身の支持者の軍を率いてマウォポルスカを占領した。ドゥゴシュによれば、その軍勢は騎士ではなく、農民が主体だった。グダニスクを中心とするポメレリアも支配下に置いたが、現地の領主やドイツ人の支持を得られず、バルト海沿岸の支配は維持できなかった。1309年にヘンリク3世が没し、1311年までにマウォポルスカと世襲領のクヤヴィの支配を固めた。クラクフとサンドミェシュでのドイツ人支配層の反乱も、現地の貴族や都市民の支持を受けて乗り切った。1314年には、ヴィエルコポルスカも彼の領国に組み込まれた。

1318年から王冠の獲得に乗り出した。ボヘミア王ヨハンがポーランド王位を主張していたため、教皇ヨハネス22世は当初は認可を渋ったが、最終的に容認した。1320年1月20日にクラクフで戴冠し、これは、ポーランドが再統合された独立王国になったという政治的な主張であった。ただしシロンスクの諸公はヨハンに臣従した。晩年はドイツ騎士団との戦争に費やされた。ヨハンが騎士団と同盟して北と西から攻め、1328年にドブジンが奪われた。1331年9月27日、クヤヴィ地方のプウォフツェの戦いで、十字軍を標榜する騎士団軍を迎え撃ち、その攻勢を止めた。また、支配下の諸地域に単一の法典を適用しようと努め、ユダヤ人にもキリスト教徒と同様の安全と自由が保障されるよう図った。

1333年3月にクラクフで没し、73歳だったという。息子カジミェシュ3世が引き継いだ王国は、マウォポルスカ、ヴィエルコポルスカなど、まだ狭いものだったが、彼の治世はポーランドの再統一を大きく前進させたと評価される。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物