伝記
ブランシュ・ド・ブルゴーニュは、1296年ごろに生まれ、1326年4月29日にモビュイソン女子修道院で没した、フランス王シャルル4世の最初の妃である。ブルゴーニュ伯オトン4世とアルトワ女伯マティルドの次女で、アルトワのブランシュとも呼ばれた。姉のジャンヌ、のちのフィリップ5世の王妃がブルゴーニュ伯領とアルトワ伯領を継ぐ立場にあり、ブランシュ自身は継ぐ予定ではなかった。父オトンは1303年に亡くなった。幼い日々はほとんど知られていない。
1307年、フィリップ4世は、ジャンヌを次男フィリップ(のちのフィリップ5世)と結婚させることを認め、二人はコルベイユで式を挙げた。母マティルドはただちに次女ブランシュと王の三男シャルルの縁談を進め、教皇から血縁の近さについての特免を得て、莫大な持参金を約束した。1307年9月23日に11歳のブランシュと13歳のシャルルは結婚契約を結び、式は1308年1月にエダンの母の城で急いで行われた。ブランシュが結婚できる年ごろと認められ、夫婦がパリのネールの塔で一緒に暮らすことを許されたのは1310年のことである。シャルルは王位から遠い立場だったため、その後の暮らしの様子は伝わっていない。
1313年、王の娘イザベルが夫のイングランド王エドワード2世とパリを訪れ、兄嫁のブランシュらに刺繍入りの小銭入れを贈った。ロンドンに戻ってからの晩餐会で、イザベルは、義姉たちに贈った小銭入れがノルマンディーの騎士ゴーティエとフィリップのドネー兄弟の腰に下がっているのに気づき、二人が義姉らと関係を持っているのではないかと疑った。1314年に再びパリを訪れたイザベルは、父王にこの疑いを打ち明けた。王は密かに調べさせ、宮廷がモビュイソン修道院に集まっていたときに事件が明るみに出た。ゴーティエがブランシュの、フィリップがブランシュの義妹マルグリットの愛人だったとされ、関係は1311年か1312年から3年ほど続いていたという。姉のジャンヌは、事件を隠していたとして告発された。
ドネー兄弟は拷問を受けて姦通を自白し、ポントワーズで処刑された。ブランシュとマルグリットはパリ高等法院で姦通の罪により有罪とされ、頭を剃られ、粗末な服を着せられ、ノルマンディーのガイヤール城の地下に終身刑で閉じ込められた。ジャンヌだけは許されて宮廷に戻った。ブランシュの最初の子である息子フィリップは1314年1月5日ごろに生まれていたため、父がシャルルではないとは疑われなかったが、事件のために子どもたちの正統性は問われた。二人目の子で娘のジャンヌは、裁判のあとの1315年に生まれた。汚名を受けても、野心的な母マティルドとは連絡を取りつづけ、しばしば贈り物を受け取った。
娘ジャンヌは1321年5月17日に亡くなった。1322年1月3日にフィリップ5世が没し、夫シャルルが王位を継いで、ブランシュはフランスとナバラの王妃となった。しかしシャルルの訴えにより、教皇ヨハネス22世は同年5月19日に二人の結婚の無効を宣言し、二人とも再婚を認められた。息子フィリップも同年3月末までに亡くなっている。シャルルはマリー・ド・リュクサンブールと再婚した。ブランシュは地下での長い幽閉で健康を損ない、1324年に修道院で償いの暮らしを送ることを許されたのち、モビュイソン女子修道院で、1326年に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- レオポルト1世 (オーストリア公) (1326年没)
- 惟康親王 (1326年没)
- Sheikh Edebali (1326年)
- オスマン1世 (1326年没)
- ケベク (1326年没)
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