伝記
モンディーノ・デ・ルッツィは、1270年ごろに生まれ、1326年に没したイタリアの医師で解剖学者である。ボローニャで活動し、1315年に公開の人体解剖を行いながら解剖学を講義する教育法を始めたことから、「解剖学の再興者」と称される。ラテン語名はムンディヌスで、ルッツィのほか、リウッツィ、ルッチとも綴られる。
モンディーノは、ギベリン派に属するフィレンツェの名家デ・ルッツィ家に生まれた。祖父アルビッツィオと父ネリーノはボローニャの薬屋で、叔父ルッツィオは医学の教授であった。幼いころをボローニャで過ごし、ボローニャ大学で医学と哲学を修めて、1290年ごろに学位を得たとされる。師は、ボローニャの医学の発展に貢献したタデオ・アルデロッティで、同じ学生にアンリ・ド・モンテヴィルがいた。1306年から1324年のあいだ、モンディーノは大学で臨床医学と外科学の講師として雇われ、1314年からは公開講義も受け持った。外交の手腕にも定評があり、市政にもかかわって、ナポリ王ロベルトの子ジョンのもとへボローニャの大使として派遣されたこともある。
人体の解剖はアレクサンドリア学派の特色だったが、紀元200年ごろ以降は法と宗教上の禁止で廃れていた。この禁止がやがて解かれ、1315年1月、モンディーノはボローニャで最初の公開解剖を行った。学生や見物人が立ち会い、対象はおそらく処刑された女性の罪人であったとされ、子宮の解剖も行われた。当時は、教授が高い椅子に座って解剖書を読み上げ、助手の外科医が実際に解剖を行い、指示役が体の部位を指し示すのが普通であった。モンディーノは、自らの手で解剖して遺体を観察し、その経験を講義と著作に生かした点が独特だった。人体を頭、胸、腹の3つの区画に分けてとらえ、頭は「動物の器官」、胸は心臓や肺などの「霊の器官」、腹は肝臓などの「自然の器官」を収めると考えた。そして、「もっとも雑然として位の低い」腹から解剖し、次に胸、最後に頭へ進むべきだと説いた。手足の筋肉を調べるには、腐りやすい遺体の代わりに日干しにした遺体を使ってもよいとも述べた。
1316年には、解剖学の教科書『アナトミア・ムンディニ』を書き上げた。解剖の手順とその理由を簡潔にまとめた、最初の近代的な解剖の手引きとされる。冒頭では、人間は知性や推論の力、道具をつくる力、直立した姿に優れた存在であり、研究に値すると述べている。ただし内容はアラビアを通じて伝わったガレノスの著書を踏襲したもので、多くの誤りがそのまま残されていた。そのほか、ガレノスやヒポクラテス、イスラム医師ユーハンナー・イブン・マーサワイヒらの著作に注釈をつけた論文もある。
モンディーノは1324年に大学での講師の務めを終え、1326年にボローニャで世を去った。叔父とともにサン・ヴィターレ・エ・アグリコラ教区教会に葬られ、花崗岩の墓には、大きな椅子に座って学生に講義する教師を表した浅浮き彫りが施されている。『アナトミア・ムンディニ』はその後、1470年代に入って印刷され、40以上の版が出たと考えられる。人体を直接観察する手法が主流になるまで、約250年にわたって標準的な解剖学の教科書として最も多く参照された。
同じ年に亡くなった人物
- ヒュー・ル・ディスペンサー (小ディスペンサー) (1326年没)
- レイナウト1世 (ゲルデルン伯) (1326年)
- ステファン・ヴラディスラフ2世 (1326年没)
- ブランシュ・ド・ブルゴーニュ (1326年没)
- Sheikh Edebali (1326年)
同じ地域に関係する人物
- Lucius Pomponius (紀元前84)
- アンジェロ・スキアビオ (1990年没)
- ルドヴィーコ・ルドヴィーシ (1632年没)
- ボナヴェントゥーラ・カヴァリエーリ (1647年没)
- タルクィニオ・プロヴィーニ (2005年没)