HISTORICAL PERSON · 1647年没

ボナヴェントゥーラ・カヴァリエーリ

イタリアの数学者。ガリレオの弟子にあたる人物と出会って数学者を志し、ボローニャ大学の数学教授となった。1635年の著作でカヴァリエリの原理を提唱し、微分積分分野に大きな影響を残した。

生涯
1647年没
死亡地
イタリア共和国(ボローニャ県 / ボローニャ)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ボローニャ県)

伝記

ボナヴェントゥーラ・カヴァリエーリは、1598年にミラノで生まれ、1647年11月30日にボローニャで没したイタリアの数学者である。微分積分の分野で理論形成に大きな影響を残し、カヴァリエリの原理を提唱した人物として知られる。生まれたときの名はフランチェスコで、父の名がボナヴェントゥーラだったが、1615年にミラノでイエズアーティ会に入った際、ボナヴェントゥーラの名を名乗り、以後この名で知られた。この修道会は、もとは黒死病の病人の世話をしていた会で、時代とともに入会者が減り、1668年に教皇クレメンス9世によって解散された。会員としての彼は、いつもサンダルを履き、毎日みずからを鞭打っていたという。

ミラノで1年を過ごしたのち、1616年にピサの聖ジローラモ修道院へ移り、1617年ごろの1年をフィレンツェで過ごした以外、1620年までそこにいた。ピサ大学の数学教授ベネデット・カステッリから幾何学を教わり、ガリレオの考えに触れた。数学への関心は、もともとユークリッドの『原論』に刺激されたもので、ガリレオに会ってからは、自らをその弟子と考えるようになった。この対面は枢機卿フェデリコ・ボッロメーオの計らいだった。カヴァリエーリは、1619年から1641年にかけてガリレオに100通以上の手紙を送っている。ガリレオがすべてに返事をしたわけではなく、届いた返信も、いくつかを除いて失われている。将来が有望で、ときにはカステッリの講義を代わって受け持ったという。

1619年、ジョヴァンニ・アントニオ・マジーニの死で空いたボローニャ大学の数学の講座に応募したが、若すぎるとされて落ちた。ローマやピサの大学でも成功せず、彼は修道会に属していることが原因だと考えたが、確かなことは分からない。それでも聖職者としては昇進し、1621年に助祭となって、ミラノの聖ジローラモ修道院で枢機卿ボッロメーオの補佐を務めた。無限小に通じる「不可分者の方法」を考え始めたのは、このミラノ滞在中だったとされる。1623年までミラノで神学を教え、ローディの聖ペトロ修道院の院長に任じられ、3年後にパルマの修道院へ移って院長となった。1626年の秋、パルマからミラノへ向かう旅の途中で痛風にかかった。子どもの頃からの病で、生涯彼を苦しめ、数か月にわたってミラノに足止めされた。

1627年12月16日には、ガリレオと枢機卿ボッロメーオに宛てて、著書『幾何学』を書き終えたと知らせた。この本に、のちに積分学の発展の要因となる不可分者の方法が収められている。1629年、ボローニャ大学の数学教授に任命された。ガリレオはボローニャの貴族ケーザレ・マルシーリへの手紙で、アルキメデス以来、幾何学の科学をこれほど深く究めた者はほとんどいないと述べた。カヴァリエーリは応募に際し、幾何学の原稿と、円錐曲線と光学への応用についての小論をマルシーリに送った。ガリレオの証言が決め手となって、ボローニャの為政者たちは第一の数学講座を彼に託し、彼は1629年から死ぬまで途切れなくその講座を務めた。なお、教授就任を1626年とする記述もある。1635年には『新しい方法によって促進された連続体の不可分者の幾何学』を発表した。ケプラーの『ぶどう酒樽の測定』とともに近代的な求積法の始祖とされ、天文学や占星術にも通じて、関連の著作も残した。

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