伝記
シデバラは、1302年2月22日に生まれたモンゴル帝国の第9代カアンで、元朝としては第5代皇帝にあたる。名はシッディバーラとも読まれ、漢文の史料には碩徳八剌と記される。尊号はゲゲーン・カアン、廟号は英宗である。仁宗アユルバルワダの長男で、母はコンギラト部族出身のラトナシリである。名は、仏教でいう成就の守護者を意味する梵語のシッディパーラに由来し、尊号は「輝かしいカアン」を意味するという。
アユルバルワダは、兄の武宗カイシャンの皇太子だったころ、自分が即位したらカイシャンの子を皇太子に立てると兄に約束していた。ところが1311年に武宗が急死すると政変が起こり、武宗期の重臣が追放され、武宗の2人の遺児も遠隔地に追いやられた。武宗と仁宗の母ダギは、実家のコンギラト部族の者を母とする皇子を擁立して自分の影響力を高めようと画策した。そこで、武宗の長男の周王コシラらを差し置いて、1317年1月2日に、シデバラが皇太子に立てられた。このため、シデバラは即位の前から、ダギを中心とするコンギラト派の重臣たちに取り囲まれていた。
1320年に父が没すると、18歳で即位した。即位のとき財政は長年の放漫で破綻寸前であり、年若い皇帝は、政治的には祖母の皇太后ダギと、その腹心のテムデルらの傀儡にすぎなかった。ダギは、仁宗の晩年に遠ざけられていたテムデルをすぐに中書右丞相に復帰させ、仁宗の治世以上に政治を壟断した。しかしシデバラは、年に似合わぬ政治的な独立心と決断力を示したとされ、1320年の夏にはバイジュを左丞相に起用してテムデルに対抗させた。バイジュはクビライの時代の丞相アントンの孫で、チンギス・カンに仕えた名将ムカリの子孫でもあり、儒学の教養もあった。シデバラ自身も、漢語の教育を受けており、儒教と仏教に深く影響され、唐詩を暗誦し、書にも優れていたという。1321年には大都西方の山に、パスパ・ラマをたたえる仏教寺院を建てたが、これを非難した監察官たちのうち数人を死刑にした。一方でイスラーム教は、特に厳しい差別を受けたと伝えられる。
1322年にテムデルとダギが相次いで没すると、20歳になっていたシデバラは、ようやく実権を握った。バイジュを右丞相に起用し、テムデルにつながるコンギラト派を粛清して、カアン主導の新政権を築いた。『大元聖政国朝典章』を頒布して法制度を改め、禁軍を強化して、帝権の拡大を図り、科挙も続けた。しかし、テムデルの爵位を剥奪して遺産を没収し、遺児まで処刑するなど、コンギラト派に厳しい弾圧を加えたため、テムデルの養子で御史大夫のテクシらは皇帝を恐れるようになった。1323年旧暦8月、宮廷が夏の都の上都から冬の都の大都へ移る途上、上都南方の南坡に滞在していたとき、テクシは手兵を率いて襲撃し、シデバラはバイジュとともに暗殺された。これを南坡の変という。その後、テクシらは英宗の従兄の晋王イェスン・テムルを泰定帝に擁立したが、泰定帝は先手を打ってテクシらを逮捕、処刑し、コンギラト派は一掃された。治世は3年と短く、ダギの死後に親政を行ったのは1年に満たないが、仁宗以来の漢文化の保護が続いたため、漢人の編纂した史料では評価が高い。
同じ年に亡くなった人物
- Augustin Kazotic (1323年)
- カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1295–1323) (1323年没)
- Elizabeth of Hungary, Queen of Serbia (1323年(推定))
- フリードリヒ1世 (マイセン辺境伯) (1323年没)
- 馬端臨 (1323年没)
同じ地域に関係する人物
- 陳慕華 (2011年没)
- ジャン=ドニ・アティレ (1768年没)
- クビライ (1294年没)
- ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ (1328年没)
- 洪熙帝 (1425年没)