伝記
クビライは、一二一五年九月二十三日にチンギス・カンの四男トルイの次男として生まれ、一二九四年二月十八日に没した、モンゴル帝国の第五代皇帝であり、元朝の初代皇帝である。母はネストリウス派のキリスト教徒でケレイト部族出身のソルコクタニ・ベキで、兄に第四代皇帝となるモンケ、弟にイルハン朝を開くフレグ、のちに皇帝位を争うアリクブケがいた。一二二五年一月、十一歳の彼は弟フレグとともに、中央アジア遠征から戻る祖父チンギス・カンを出迎え、初めての狩猟でウサギを射止めた。祖父は、モンゴルの風習に従って孫たちの指に油を塗ったという。
一二五一年に兄モンケが即位すると、ゴビ砂漠以南の華北方面の軍の指揮権を与えられ、中国方面の征服を任された。一二五二年に陝西から雲南へ遠征し、南宋領を避けてチベット東部を迂回する難行軍の末、一二五三年に大理国を降伏させた。帰還後は南モンゴル中部のドロン・ノールに幕営を移し、開平府(のちの上都)を築いて、姚枢ら漢人の知識人を登用し、中国を安定して治める道を探った。しかし、一二五六年にはモンケから不満を持つとみなされ、南宋作戦の責任者を更迭された。モンケ自身が一二五八年に親征したが、一二五九年に軍中で流行した疫病に罹って病没した。
モンケの急死後、留守を守っていたアリクブケを、重臣や高原以西の諸王が支持し、クビライは前線の諸軍団と高原東部の貴族を味方につけた。一二六〇年、クビライ派がクリルタイを開いて即位を宣言し、五月にはアリクブケも対抗して即位を宣言したため、帝国は二人のカアンが並び立って南北に分裂した。クビライ側は初戦のシムルトゥ・ノールの戦いに勝ち、華北と高原の大半を制した。アリクブケは一時カラコルムを取り戻したが、中国の物資を背景とするクビライの経済封鎖で行き詰まり、一二六四年に降伏した。
即位したクビライは、モンゴル王朝で初めて中国風の元号を立て、中書省を新設した。続いて枢密院や御史台なども整い、中国式の政府機関が一通りできあがった。紙幣の中統元宝交鈔も発行して通貨を統一した。至元四年(一二六七年)から中都の郊外に大都の造営を始め、一二七一年に国号を大元と改めた。チベット仏教の僧パクパを国師とし、パスパ文字を制定させたが、習得が難しく、元の時代のうちに廃れた。儒教は特に重視しなかったものの、漢学の必要性は認めており、王族の子弟に漢学を学ばせた。
一二七六年には将軍バヤンの大軍が南宋の都の臨安を占領し、南宋は実質上滅んだ。ムスリムの財務官僚を登用して専売や商業税を充実させ、運河も整えて、富が大都に集まる仕組みを作った。東西の交通が盛んになり、ヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら、多くの西方の人々が中国を訪れた。中央アジアではオゴデイ家とチャガタイ家がカアンの権威から離れたため、彼は三人の嫡子チンキム、マンガラ、ノムガンを燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍を統括させた。一二七五年にノムガンはアルマリクを占領したが、翌年に従軍していた王族の反乱で軍は崩壊し、これを機にカイドゥが公然と対抗し始めた。一方、日本への二度の侵攻やベトナム、ジャワなどへの遠征は、現地の激しい抵抗を受けて敗退した。晩年には東方の諸王家がナヤンを指導者に叛き、老齢の彼が自ら親征して鎮圧した。
同じ年に亡くなった人物
- ルートヴィヒ2世 (バイエルン公) (1294年没)
- サフィーユッディーン・ウルマウィー (1294年)
- Guittone d'Arezzo (1294年)
- ジャン1世 (ブラバント公) (1294年没)
- ルシア (トリポリ女伯) (1294年(推定))