伝記
マリク・カーフールは、北インドのデリー・スルターン朝、ハルジー朝に仕えた武将で、宦官である。生年は分かっていない。もとはグジャラート地方のヒンドゥー教徒で、若いころは港町カンバートの富裕な商人に仕える奴隷だったとされる。1299年のグジャラート侵攻の際に、スルターンのアラー・ウッディーン・ハルジーの軍に捕らえられてイスラーム教に改宗し、デリーでアラー・ウッディーンに引き合わされた。1000ディナールで買われたとされることから「ハザールディナーリ」と呼ばれたが、この額は誇張だともいわれる。アラー・ウッディーンは、彼の助言がいつも場にかなっていたとして重んじ、カーフールは知恵のある助言者、また軍の指揮官として頭角を現した。
1306年には、軍を率いてパンジャーブに向かい、チャガタイ家のモンゴル軍の侵入を退けた。その後、デカン地方の遠征軍の指揮官に任じられる。1307年(1308年とも)、貢納を怠っていたデカンのヤーダヴァ朝への遠征では、スルターンが傘蓋と天幕を彼に持たせ、諸将に毎日挨拶して命令を受けるよう命じるほど、他の将より高く引き立てられた。首都デーヴァギリを落とし、君主ラーマチャンドラをデリーへ送り、以後デーヴァギリはハルジー朝の南インド進出の拠点となった。
1310年にはカーカティーヤ朝に攻め入って首都ワランガルを落とし、君主プラターパルドラ2世に貢納を強いて、6月にデリーへ帰還した。同年11月には再び南に向かい、1311年2月にホイサラ朝の首都ドーラサムドラを攻め落として、君主バッラーラ3世にも貢納を課した。そのころ南端のパーンディヤ朝では、兄弟の王子が王位を争っており、父王を殺して王座を得たスンダラ・パーンディヤが弟に首都マドゥライを追われて、カーフールに援助を求めた。カーフールは、弟がバッラーラ3世を支援していたことを知っていたため、これに応じた。1311年3月、マドゥライを攻めて各地を略奪したが、相手は出撃せず、軍を破れないまま貢租の合意も成らず、遠征は失敗に終わった。それでもチダンバラム寺院などから莫大な財宝を得て、ラーメーシュワラムまで進み、モスクを建てたという。その後に携えた戦利品は、象612頭、馬2万頭、多量の金と宝石だったと伝わる。この遠征は永続的な支配よりも財貨の獲得を主な目的としていた。1313年には、反抗するようになったヤーダヴァ朝のデーヴァギリを再び制圧したが、彼が去ると新たな君主ハラパーラデーヴァが独立を宣言した。
晩年のアラー・ウッディーンは健康を崩し、宮廷でのカーフールの権力は増していった。彼はスルターンを説得して、正妃を宮廷から追放し、妃の兄弟を処刑させ、後継者だった王子ヒズル・ハーンを投獄させた。1316年1月にアラー・ウッディーンが水腫で死ぬと、カーフールが暗殺したとの噂が立った。彼は権力を握るために次男シャーディー・ハーンと三男クトゥブッディーン・ムバーラクを幽閉し、シャーディー・ハーンをヒズル・ハーンとともに盲目にした。そのうえで幼い末子シハーブッディーン・ウマルを王位につけ、傀儡とした。しかし専横は貴族の反発を招き、アラー・ウッディーンの死から35日後の1316年2月ごろ、カーフールは貴族らによって暗殺された。ウマルは廃され、幽閉されていたムバーラクが王となった。
晩年と死後の所業の悪辣さから、奸臣と評される。だがインド南部の遠征の功績は大きく、この遠征でムスリムの軍は初めてマドゥライに達し、莫大な富がデリーに持ち帰られた。
同じ年に亡くなった人物
- Louis of Burgundy (1316年)
- ステファン・ドラグティン (セルビア王) (1316年没)
- エリザベス・オブ・リズラン (1316年没)
- ヴィテニス (1316年没)
- オルジェイトゥ (1316年没)
同じ地域に関係する人物
- マハトマ・ガンディー (1948年没)
- Hazari Prasad Dwivedi (1979年没)
- ファッルフシヤル (1719年没)
- Siddheshwari Devi (1977年没)
- アーラムギール2世 (1759年没)