伝記
マハトマ・ガンディーは、1869年10月2日にイギリス領インドのグジャラート地方の港町ポールバンダルで生まれた宗教家・政治指導者で、本名をモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーという。「マハトマ」は「偉大なる魂」を意味する尊称で、詩人タゴールから贈られたとされるが、アニー・ベサントが最初に言い出したとの説もある。父カラムチャンドはポールバンダル藩王国の宰相で、四男一女の末っ子であった。小学校時代は成績が悪く、悪友に唆されて戒律で禁じられた肉食を繰り返し、タバコ代を作るために召し使いの金を盗んだこともあった。13歳でのちの妻と結婚し、18歳でロンドンに渡った。海外渡航に反対する保守派の人々により、ボンベイでカーストから追放されたうえでの旅立ちだった。ロンドンではユニヴァーシティ・カレッジで学び、のちインナー・テンプル法曹院に入って法廷弁護士を目指した。1888年に神智学協会の会員と出会い、ブラヴァツキーやベサントにも会って、英訳を通じて『バガヴァッド・ギーター』を読み、インドの伝統に関心を深めていった。
1893年、南アフリカで弁護士として開業した。しかしイギリス紳士として振る舞っていたにもかかわらず、列車の車掌にクーリー扱いされる人種差別を経験し、そこからインド人としての意識に目覚めたといわれる。ただしリチャード・フォックスによれば、彼はしばらく従来どおりのイギリス化の方向を保ち、その後に自覚を深めたようである。トルストイの影響や『新約聖書』の山上の垂訓への洞察から非所有の生涯を決意し、これが後の非暴力思想を形づくった。南アフリカでは人種差別政策の体制化が進むなかで、インド系移民の権利回復運動を率い、1908年に初めて逮捕され、1913年にはトランスヴァールへの行進を企画して投獄された。この運動を通じて、不正の撤廃という最初の勝利を手にしたとされる。ダーバン近郊には共同農園を創設し、禁欲や断食、清貧を実践した。
1914年に第一次世界大戦が始まると、イギリスは将来の自治を約束してインド人に協力を求め、彼もその約束を信じて志願を呼びかけた。だが戦後も自治は期待ほど進まず、強圧的なローラット法が制定された。1919年4月13日にはアムリットサルで、抗議に集まった非武装の市民が軍隊に射撃されて数百人が亡くなり、彼は「イギリスへの協力は独立に通じない」という確信を抱くようになる。以後はインド国民会議に加わり、サティヤーグラハと名づけた非暴力不服従の運動で世界に知られた。イギリス製の綿布を拒んで手織りの綿布を着るよう呼びかけ、糸車を回す姿は広く知られる。1922年には民衆が警察署を襲って警官ら約二十人を焼死させる事件が起き、第一次の不服従運動は中止となった。同年3月に懲役六年の判決を受けるなど、生涯に計六回投獄された。1930年に運動を再開し、塩税に抗議する「塩の行進」はとりわけ有名である。1942年にはクイット・インディア運動を掲げて二年間投獄された。1947年8月15日にインドは独立したが、「ヒンドゥーとイスラームが融合したインド」という彼の望みはかなわなかった。1948年1月30日、民族義勇団の活動家により暗殺された。誕生日の10月2日はインドの国民の休日となり、国連総会は2007年にこの日を国際非暴力デーと定めている。
同じ年に亡くなった人物
- ヘレナ・ヴィクトリア・オブ・シュレスウィグ=ホルスタイン (1948年没)
- ディーター・ヴィスリツェニー (1948年没)
- ユースタス・マイルズ (1948年没)
- Prince Sabahaddin (1948年没)
- アルトゥール・リーベヘンシェル (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- ゾーラ・セーガル (2014年没)
- ハキーム・アジュマル・ハーン (1927年没)
- Padmaja Naidu (1975年没)
- ガーリブ (1869年没)
- ミール・カーシム (1777年没)