伝記
オルジェイトゥは、1280年に生まれたイルハン朝の第8代君主である。第4代君主アルグン・ハンの三男で、母はウルク・ハトゥン。兄に第7代君主ガザン・ハン、子に第9代君主アブー・サイードがいる。出生時の名はオルジェイ・ブカといい、のちにモンゴルの邪視を避ける慣習によってテムデルと改名した。幼いころ、シャーディー・クルゲンの娘クンジュスカトを娶り、二人は一緒に育てられた。母はテムデルをキリスト教に改宗させて洗礼名ニコラスを与えたが、母の死後はクンジュスカトの勧めでイスラーム教に改宗し、ハルバンダと名を改めた。
1295年に兄のガザンが第7代イルハンに即位すると、ハルバンダはホラーサーン方面全域の統括を任された。病を得たガザンは1304年5月に死期を悟って遺言を残し、4年前に後継者に指名していたハルバンダに位を継がせて、まもなく世を去った。任地で訃報を受けたハルバンダは、将軍ムライから、位を狙うアラーフランクと将軍ホルクダクの動きに警戒するよう勧められた。そこで喪を公表する前に、3名の部下にこの二人を殺害させた。7月にタブリーズ近郊で喪礼を済ませ、王侯、アミール、ワズィールらの満場一致で推戴されると、占星術師の指示した7月21日に即位し、幸運なスルターンを意味するスルターン・ウールジャーイトゥと号した。
初政では兄の政策をそのまま引き継ぎ、ガザンの定めたヤサを政務の規範とした。軍事は将軍のクトルグ・シャーやチョバンらに、財政はワズィールのラシードゥッディーンらに委ねた。1304年9月にはマラーガ付近で元朝皇帝やチャガタイ家などの使節団に会い、モンゴル帝国で40年続いた内乱が終わったことと友好を確かめた。翌1305年1月にはマムルーク朝へ使節を送り、ガザンの時代に抑留していた使節団を帰国させた。3月にはクトルグシャー・ハトゥンと、6月にはブルガン・ハトゥンと結婚している。この年には属国キルマーン・カラヒタイ朝のシャー・ジャハーンがガザンの死に乗じて反乱を起こして捕らえられたが、幼かったため死罪を免れ、王朝のほうが解体された。7月には父アルグンの計画を引き継いで、コンクル・ウラング平原に新都の建設を始めた。のちにスルターニーヤと名付けられたこの都には、大理石と彩色した陶磁器で飾られた大きなモスクのほか、病院や学院が建てられた。
1306年9月、従わないヘラート王ファフルッディーンの討伐に将軍ダーニシュマンドを送ったが、和平の席で将軍が殺されたため、別の将軍ヤサウルを送り直した。12月にはアルダイ・ガザンから、ドゥア・ハンの死去とともに、ドゥアらがペルシアの君主は小さなギーラーン国すら征服できないと嘲笑していたとの報告を受け、癇に障ったオルジェイトゥはギーラーン征服を決意した。1307年4月、ラシードゥッディーンが『モンゴル史』を完成させて献呈すると、オルジェイトゥはこれに「諸国史」と「諸民族系譜図」を加えるよう命じ、増補版は1314年に『集史』として脱稿した。5月にダイラム地方を征服してギーラーンの遠征を進め、抵抗の激しい地区では住民の多くが掠奪、虐殺された。7月に遠征から戻ると、ファフルッディーンの弟ギヤースッディーンを次のヘラート王に封じた。9月にはムーサというクルド人がマフディーを自称して反乱を企てたが、すぐに捕らえられた。1308年にはキリキア・アルメニア王国で守将が王レヴォン4世を殺す事件が起き、守将を処刑して王の叔父オーシンを次の王に立てた。シーア派への改宗を宣言したことでも知られるオルジェイトゥは、1316年12月16日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アラー・ウッディーン・ハルジー (1316年没)
- 郭守敬 (1316年没)
- ステファン・ドラグティン (セルビア王) (1316年没)
- Louis of Burgundy (1316年)
- マージョリー (1316年)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。