伝記
アルテュール2世は、ブルターニュ公ジャン2世と、イングランド王ヘンリー3世の娘である妃ベアトリスの長男として、1261年7月25日に生まれた。1275年、トゥールでリモージュ女子爵マリーと結婚し、妻の権利によってリモージュ子爵となった。マリーはリモージュ子爵ギー6世とマルグリット・ド・ブルゴーニュの娘であった。二人の間には3人の子が生まれた。1286年生まれのジャン、1287年生まれのギー、1289年生まれのピエールである。マリーは1290年に亡くなった。
1294年、アルテュールはスコットランド王アレグザンダー3世の未亡人であったヨランド・ド・ドルーと結婚した。ヨランドとの間には、6人の子が生まれた。1294年生まれのジャンはモンフォール伯となった。娘のベアトリス、ジャンヌ、アリックス、ブランシュ、マリーが続く。ブランシュは早世した。ベアトリスはギー10世・ド・ラヴァルと、ジャンヌはロベール・ド・カッセルと、アリックスはヴァンドーム伯ブシャール6世と結婚した。末のマリーはポワシー修道院の尼僧となった。
1305年に父が急死すると、アルテュールはその跡を継いでブルターニュ公となった。継承は同年11月18日とされる。リッチモンド伯領の叙任は、国王によって弟のジャン・ド・ブルターニュに移された。治世は静かで短かったと伝えられる。父の1302年の遺言で、アルテュールとその弟は十字軍の計画を進める務めを受け継いだ。しかしアルテュールは、まず、弟ジャンが叔父のためにスコットランドで戦っているので動けないと言い、のちには自分の体が弱いと言って、実行しなかった。後の言い分は、あながち口実とは言えなかったらしい。1309年には、ブルターニュの三部会をはじめて招集し、第三身分の代表が加わる議会は、ブルターニュでも、現在のフランスの領土でも、これが初めてだったとされる。
治世にはサン=マロの市民が自治都市をつくろうとする出来事もあった。ブルターニュでは唯一の試みで、北部の町々にならったものだったが、反乱は実を結ばず、コタンタンの代官の使者が介入すると、自治の話はなくなった。アルテュールは、祖父以来の聖職者との長い争いにも終止符を打った。死者への徴収や婚礼の宴席での徴収をめぐる争いで、聖職者への税も引き下げた。教皇との合意は、プロエルメルの会議で承認された。
アルテュールは1312年8月27日、リル城で亡くなった。心臓はプロエルメルのカルメル会に預けられ、遺体はヴァンヌのコルドリエ会修道院に、自分で造らせた大理石の美しい墓に葬られた。フランス革命のとき、墓の横臥像は壊された。墓の資材は道の舗装に使われたが、のちに回収され、今は時おり一般に公開されている。
同じ年に亡くなった人物
- イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン (1312年没)
- マリーノ・ツォルジ (1312年)
- ジャン2世 (ブラバント公) (1312年没)
- トクタ (1312年没)
- Cecco Angiolieri (1312年)
同じ地域に関係する人物
- フレデリック・バジール (1870年没)
- エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック (1780年没)
- ジャン・アジェロウ (1921年没)
- ジャック・マクドナル (1840年没)
- マルグリット・ブロクディス (1983年没)