伝記
トクタは、ジョチ・ウルスの第9代当主(ハン)で、1291年から1312年まで在位した。生年は分かっていない。バトゥの曾孫で、第6代当主モンケ・テムルの五男にあたり、母はコンギラト部族の首長の血を引くオルジェイ・ハトゥンである。名のトクタはモンゴル語で「保つ」を意味し、家族の間ではクリュグとも呼ばれたという。マムルーク朝の歴史家によると、従兄弟のトレ・ブカが当主となって西方の有力者ノガイと対立すると、トクタはノガイと手を結び、その支援でトレ・ブカ一派を倒して当主に推された。『集史』は、トレ・ブカ兄弟に命を狙われたため、トクタはノガイを頼ったと記している。
即位直後の1292年(1293年とも)、ウラジーミル大公位をめぐって、ノガイの支持するドミトリーと、サライのハンの支持を受けるアンドレイが争っていた。ルーシの諸侯はトクタにドミトリーへの制裁を願い出た。トクタははじめドミトリーの支持を考えていたが、状況を見てアンドレイ側につき、兄のトデゲンに軍を預けてウラジーミルへ派遣した。トデゲンらはウラジーミルを占領し、周辺の14の都市を破壊して略奪した。これはバトゥの大遠征以来、ルーシがモンゴルから受けた軍事的制裁のうち最大のものだった。
トクタは岳父のコンギラト部のサルジダイを重んじたが、ノガイとの間では、サルジダイの引き渡しや、ヴェネツィア人・ジェノヴァ人の商人の扱いをめぐって折り合えなかった。ノガイはトクタのもとから逃げた将校をかくまい、仲はさらに悪化した。1297年にはビザンツ皇帝アンドロニコス2世の庶出の娘マリア・パレオロギナを妻に迎えたが、同じ年から翌年にかけてノガイとの軍事衝突が始まり、最初の戦いはトクタ側が敗れた。トクタはイルハン朝のガザンに助けを求めたが断られた。それでも1299年とも1300年ともいわれる戦いでノガイを死に追いやり、ヒジュラ暦701年(1301年から1302年)にはノガイの末子トライを処刑して、一族との内戦を終わらせた。弟のサライ・ブカはトライにそそのかされて反旗を翻し、処刑された。ともに反乱を起こした兄のブルルクは国外へ亡命した。
その後は外交と統治に力を注いだ。1304年には、チャガタイ家と元の使者がサライを訪れて平和を持ちかけ、トクタは元の皇帝の名目上の上位を認めた。1307年には、カッファのジェノヴァ人が自国の児童をさらってイスラム諸国へ奴隷として売っているという領民の訴えを聞き入れ、同地を包囲した。ジェノヴァ人は1年ほど耐えたすえ、1308年に町に火を放って去った。1310年には貨幣改革を行い、外形・重量・市価のばらばらだった各地の貨幣を統一した。トクタ自身はムスリムではなく、仏教に関心を持ったとされるが、宗教には公平で、ムスリムの学者を信任した。
1312年、ルーシへの新たな遠征の準備中に死去した。男子を残さずに亡くなったとする史料もあれば、少なくとも3人の息子がおり、1人はウズベクの支持者に殺されたとする史料もある。跡を継いだのは甥のウズベクで、ウズベクがイル・バサルらトクタの一族を殺して即位したと記す史料は多い。ウズベクに好意的な史料は、トクタが子のイル・バサルに跡を継がせようと他の一族を根絶やしにしたが、イル・バサルが早世したため、生き延びたウズベクを後継者に指名したと伝える。
同じ年に亡くなった人物
- ピアーズ・ギャヴィストン (初代コーンウォール伯) (1312年没)
- フェルナンド4世 (カスティーリャ王) (1312年没)
- ティボー2世 (ロレーヌ公) (1312年没)
- イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン (1312年没)
- オットー3世 (バイエルン公) (1312年没)
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