伝記
イザベル・ド・ヴィルアルドゥアンは、1260年から1263年ごろに生まれたアカイア公国の女君主である。アカイア公ギヨーム2世の長女で、母はギヨームの三番目の妻、エピロス専制公ミカエル2世の次女アンナ・コムネナ・ドゥカイナである。男子の跡継ぎがいなかった父にとって、イザベルは家系を継ぐ重要な後継者であった。
1267年のヴィテルボ協定で、父ギヨームはシチリア王シャルル1世・ダンジューと、亡命中のコンスタンティノープル皇帝ボードゥアン2世と取り決めを結んだ。シャルルがアカイアの宗主権を得る代わりに、ボードゥアンとギヨームの継承者はシャルルの子と結婚し、子のない場合には、帝国と公国をシャルルが受け継ぐというものだった。この協定に基づき、イザベルは1271年5月28日、イタリアのトラーニで、シャルルの息子フィリップと結婚した。しかしフィリップは1277年、父ギヨームも義父シャルルも存命のうちに亡くなり、夫妻に子はなかった。翌1278年に父ギヨームが没すると、協定によってシャルル1世がアカイア公位に就いた。1285年にシャルルが亡くなると、その子シャルル2世が継いだ。
イザベルはアカイアをヴィルアルドゥアン家に取り戻そうと、1289年にラテン帝国継承者の近親フロラン・ド・エノーと再婚した。シャルル2世はこの結婚を機に二人に公国を与えたが、イザベルが夫の死後に再婚する場合はシャルル2世の同意が必要という条件を付けた。二人の間には娘マオーが生まれた。フロランは1290年にビザンツ帝国とグラレンツァ条約を結んだ。平和は1293年まで続き、この年ギリシア人がカラマタを奪い返したが、フロランの使者の説得でビザンツ皇帝アンドロニコス2世が返還した。1296年にギリシア人はアルカディアのサン・ジョルジュ城を再び奪い、フロランは包囲したが、陥落前の1297年(1298年とも)に亡くなった。
イザベルは新たな共治者を求め、1301年2月12日にローマでピエモンテ領主フィリップ・ド・サヴォワと3度目の結婚をした。夫妻の間には娘たちが生まれ、1306年生まれのマルグリットは、1324年にルノー・ド・フォレと結婚した。フィリップはラケダイモニア全域の奪還をねらったが、強権的な支配者で、モレアの貴族たちと対立した。1304年には議会を受け入れさせられ、重税に苦しむギリシア人の農民も反乱を起こした。1306年、夫妻はナポリのシャルル2世の宮廷に呼び出された。フィリップは不忠と、エピロスへの遠征で支援しなかったことを、イザベルは宗主の同意を得ずに結婚したことをとがめられた。シャルル2世は二人からアカイアを取り上げ、自分の息子ターラント公フィリッポ1世に与えた。
フィリップ・ド・サヴォワは1307年5月11日、アルバ伯領と引き換えにアカイアの請求権を手放した。イザベルは夫と別れ、エノーに移って、公国への権利を主張し続けた。1312年1月に亡くなり、ヴィルアルドゥアン家は事実上断絶した。イザベルの死後、フィリップ・ド・サヴォワは再婚した。1313年にターラント公フィリッポが没すると、イザベルとフロランの娘マオーが、アカイアの女君主となった。イザベルの生涯は、ギリシアの作家テルザキスの小説『イザンポ公妃』のもとになったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- オットー3世 (バイエルン公) (1312年没)
- ジャン2世 (ブラバント公) (1312年没)
- ガッド・ガッディ (1312年)
- パヴァオ1世シュビッチ・ブリビルスキ (1312年)
- フェルナンド4世 (カスティーリャ王) (1312年没)
同じ地域に関係する人物
- フランシスクス・シルヴィウス (1672年没)
- シモン・ステヴィン (1620年没)
- ディルク・スティッカー (1979年没)
- ペトルス・カンパー (1789年没)
- ベップ・ファン・クラフェレン (1992年没)