HISTORICAL PERSON · 1780年没

エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック

フランスの哲学者・聖職者。ロックの影響を受けて認識論を研究し、経験論的な認識論を発展させた。

生涯
1780年没
死亡地
フランス共和国(ロワレ県 / Lailly-en-Val)
出生地
フランス共和国(グルノーブル)
出典
世界地図
フランス共和国(ロワレ県)

伝記

エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤックは、1714年9月30日にグルノーブルで生まれ、1780年8月3日に没したフランスの哲学者であり聖職者である。ジョン・ロックの影響を受けて認識論を中心に研究し、経験論的な認識論を発展させた。ロックの原理を系統的に展開し、感覚論の学派の頭目とされる。

生まれたのは、新たに貴族に列せられた法律家の家で、法服貴族ガブリエル・ボノと妻カトリーヌの第七子、末っ子であった。歴史家のガブリエル・ボノ・ドゥ・マブリは長兄にあたり、コンディヤックやマブリというのは、父が購入した所領の地名である。視力がたいへん弱く、体も丈夫でなかったために書物から遠ざけられ、12歳になるまで字を読めなかったようである。1726年秋に父が亡くなると、リヨンで司法長官の職にあった兄のもとに引き取られた。1733年までイエズス会のコレージュで哲学、神学、ラテン語などを学び、同年10月にパリに出て、サン・シュルピス神学校とソルボンヌで本格的に学び始めた。1741年に司祭に叙階され、ミュロー修道院長となったが、神学より哲学、数学、自然学の研究に熱中し、サロンに出入りして、ルソー、ディドロ、フォントネル、ダランベールらと交わった。ミサを執り行ったのは生涯に一度だけだったという。処女作の出版に苦労した際は、ルソーから話を聞いたディドロが、自分の出版者を紹介したという。

1746年の処女作『人間認識起源論』を皮切りに、『体系論』、『感覚論』、『動物論』などを次々と発表した。『動物論』は、ビュフォンの『博物誌』への批判を含む。『起源論』はロックの考え方に近く、認識の源を感覚と反省に求めた。『体系論』は、抽象的な原理に頼る近代の哲学理論を厳しく批判し、デカルトの観念論、マルブランシュの心理学、ライプニッツのモナド論などに向けられた。彼は感覚のみを認識の源とし、そこから反省、推論、注意、判断が生じるとした。その証明に用いたのが、感覚を次々に得ていく彫像の例である。分析という手法を重んじ、観念を分析して再構成すれば、誤りや無用な論争を解消できると考えた。この発想もロックから受け継いだものであった。

1758年ごろ、パルマ公国の公子フェルディナンドの家庭教師に招かれ、約9年間、ルイ15世の孫にあたるこの公子を教えた。教育のために大著『教程』を書いたが、成果は期待を下回り、公子を開明的な君主にすることはできなかったと評される。1767年に職を辞してパリに帰った。名声はすでに非常に高まっており、翌年アカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。のちに、パリの社交界から身を引き、王太子の三人の息子の教育の依頼も断った。1777年にはポーランド政府の依頼で、同国の青年のための『論理学』を書いた。晩年はライイ=アン=ヴァル付近の小さな領地に住み、1780年8月3日に65歳で死去し、葬儀は生前の意思どおり静かに行われた。

彼の記号と分析の発想は、ラヴォワジエが化学記号を整理する際の手本になった。思想は、デステュット・ド・トラシーやカバニスらの観念学派に決定的な影響を与え、メーヌ・ド・ビランは彼との対決から自らの哲学を築いてフランス・スピリチュアリスムの祖となった。

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