伝記
マンラーイは、タイ北部のラーンナー王朝を築いた王である。1238年にメコン川沿いのヨーンの地で生まれた。生まれた日は10月2日とも10月10日ともいわれる。父はその地の君主ラーオメン、母はシプソンパンナ(中国の西双版納)のチエンルンを治めたタイ・ルー族の君主の娘ナーンテープ・カムカーイである。もとはピン川地域のタイ族勢力の首領であったと考えられ、父の跡を継いだ彼は、ラーオチョン王家の25代目の君主とされた。即位の年は1259年とも1261年ともいわれる。即位に際してはラーオチョンの正式な君主であると宣言し、王家の神器を相続したという。
即位後のマンラーイは、すぐ領土の拡大に動いた。周辺の国々に同盟を呼びかけ、応じた国の王には引き続き統治を認め、拒んだ国は攻撃して併合し、親族や家来を送り込んで治めさせた。こうしてヨーン地域を次々と併合していった。モンゴル帝国が雲南まで及ぶと、1259年から南に新首都の建設を始め、1262年にチエンラーイに都を移した。1276年にはパヤオを攻めたが途中でやめ、パヤオのガムムアンと意気投合して固い同盟を結んだ。1287年には、ガムムアンと、その妃を誘惑したスコータイのラームカムヘーンの仲を取りもち、三人の王は友好の誓いを結んだ。これは「三王同盟」と呼ばれる。
そのころ、ピン川流域のモン族の国ハリプンチャイから商人が訪れた。マンラーイはこの国の豊かさを聞き、重臣の反対があったにもかかわらず、手に入れようと決めた。ハリプンチャイは武力では落とせないと考えられていたため、アイ・ファーという商人を密偵として送り込み、王イー・バーの信任を得させた。アイ・ファーは宰相となり、王の権威を内側から切り崩した。1287年までにマンラーイは軍備を増やし、都市の一つファーンを要塞化していた。1291年(1292年とも)、民が不満を抱くなかでハリプンチャイを攻め落とし、併合した。イー・バーは南のランパーンへ逃れた。
マンラーイは新しい都を築こうと考え、1294年にピン川東岸にウィエンクムカームを建てた。しかしこの地は洪水に悩まされたため、北西のドーイ・ステープのふもとに新しい場所を選び、1296年にチエンマイの建設を始めた。チエンマイとは「新しい都」の意味である。それから数年後、イー・バーの子でランパーンのボエク王が、大軍でチエンマイに攻めてきた。マンラーイと次男のクラームが防戦し、クラームは象に乗った一騎打ちでボエクを破った。ボエクは逃げたが捕らえられて処刑された。マンラーイの軍はランパーンを占領し、イー・バーはさらに南のピッサヌロークへ逃れた。晩年のマンラーイは内政に力を注いだ。モン族の法典を参考に基本法典を整え、これは「マンラーイ法典」として、のちの近代的な法典ができるまで権威を保った。仏教もモン族の上座部仏教が一般的になった。モンゴルの南下にも頭を悩ませ、1299年にはパガン王に攻められたシャン族の地域へ軍を送った。1301年にモンゴルがチエンルンに攻め込んだときも、軍を派遣した。
長男のクワンは待ちきれずに王位を奪おうとして失敗し、マンラーイの命令で殺された。次男のクラームが後継者に定められた。マンラーイは1311年(1317年とも)にチエンマイで没した。伝承では、市場にいたとき雷雨のなかで落雷に打たれたという。死後の11年間に王が6人入れ替わるなど混乱が続き、国が安定するのは1328年に孫のカムフーが即位してからであった。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・ブラバン (1311年没)
- カイシャン (1311年没)
- ピエトロ・グラデニーゴ (1311年没)
- エウドキア・ラスカリナ・アサニナ (1311年)
- クトゥブッディーン・シーラーズィー (1311年没)