伝記
フレグは、1218年に生まれ1265年に没した、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者である。在位は1260年から1265年で、アバカやテグデル・アフマドの父にあたる。チンギス・カンの四男トルイと、ケレイト族出身の正室ソルコクタニ・ベキの三男として生まれ、モンケ、クビライ、アリクブケは同母の兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。フラグ、あるいはフラクとも呼ばれ、イルハンの尊称で呼ばれた。ペルシア語の史料ではフーラークー・ハーン、漢語の文献では旭烈兀と表される。幼少期についてはよく分かっていないが、1219年に早くも河南地方の彰徳方面に所領を持っていたようで、『元史』は祖父チンギス・カンが七千余戸を分与したと記録する。
1225年1月、9歳のフレグは、兄クビライとともに、中央アジア遠征から帰還する祖父をエミル川で出迎えた。このとき二人は初めて狩猟をし、クビライはウサギを1匹、フレグは鹿を1頭射止めた。モンゴルの習慣で、子供が初めて狩猟に出た際は、獲物の肉と脂身を親指にこすりつけたため、チンギス・カンは二人の孫に油を塗ってやったという。
1251年に兄モンケが第4代カアンに即位すると、クリルタイでペルシアへの派遣が決まり、モンケは弟のフレグを司令官に指名した。諸王侯は10人に2人の兵士を提供し、石や石油、槍を投射する機器を扱う技師1000人が中国から派遣された。進軍路の草原は確保され、道路の補修や船橋の用意も進められた。モンケは出発に先立ち、チンギス・カンを模範とすること、自発的に降伏する者には温情をもって接し、抵抗する者は全滅させることを指示した。このころ、遠征の軍需品の提供という意味もあってか、相州の5県が投下領として与えられた。1253年、フレグは所領の支配を長男アバカではなく次男ジュムクルに委ねて出発し、諸王侯の送別を受け、1255年9月にサマルカンドに到着し、宴楽で40日を過ごした。1256年1月にジャイフーン川を渡ると、ルーム・セルジューク朝やファールスの使節、グルジア王国などの貴族たちから、多くの贈物を受けた。
最初の標的は、山中の城塞に拠るイスマーイール派(ニザール派)であった。第8代教主ルクヌッディーン・フールシャーは、降伏の姿勢と引き延ばしを繰り返した。フレグは1256年11月に彼の居城マイムーン・ディズを包囲し、投石機で攻撃をしかけた。教主は11月19日に降伏して出頭し、12月20日にはアラムート城塞も開城した。教主は40以上の城塞をモンゴル軍に引き渡し、その城塞は破壊された。その後、教主はモンケのもとへ送られる途中、カンガイ山付近で殺された。この派の信徒はモンケの命令により、女や子供にいたるまで虐殺され、その数は1万2千人にのぼったという。
続いてフレグは、750年以来約500年続いたアッバース朝の根絶に取りかかった。1257年9月、第37代ハリーファのムスタアスィムに降伏を勧告したが、ムスタアスィムは拒絶した。この使節はバグダードの群衆に取り囲まれ、暴行を受けた。これを聞いたフレグは怒り狂い、戦争の準備に取りかかったという。ムスタアスィムは宰相アルカミーに相談し、財宝と馬を惜しみなく贈ることを勧められたという。これに先立つ1257年3月には、フレグは、ハマダーンに来たノヤンのバイジュを、指揮権を受け継いでから何をしてきたのかと叱責している。
同じ年に亡くなった人物
- ファリドゥッディーン・ガニシャカル (1265年)
- アンナ・プシェミシリトカ (1265年没)
- ウルリヒ1世 (1265年)
- ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーン4世 (1265年)
- サイモン・ストック (1265年)
同じ地域に関係する人物
- Iskandar Beg Munshi (1634年没)
- アスィールッディーン・アブハリー (1260年代没)
- クトゥブッディーン・シーラーズィー (1311年没)
- ウズン・ハサン (1478年没)
- アフマド (ジャライル朝) (1410年没)