伝記
アブー・ヤアクーブ・ユースフは、モロッコを支配したマリーン朝のスルターンである。父は先代のスルターン、アブー・ユースフ・ヤアクーブで、生年は明らかでない。時期は定かでないが、アイーシャという女性を妻とし、五人の息子をもうけたことが知られる。1283年の終わりには、数年来不和だった父とグラナダの君主が歩み寄るのを助けた。
1286年3月20日、父が亡くなり、ユースフはフェスでスルターンの位を継いだ。父の治世の終わりごろにはカスティーリャ王国との関係が改善され、1285年に両国の和平が結ばれていた。しかしユースフが即位したころのマリーン朝は、臣従国である隣国ザイヤーン朝の反抗と、宮廷内の権力闘争という問題を抱えていた。父が長年カスティーリャとの戦いに力を注いだのに対し、ユースフは国内の反乱の鎮圧と、ザイヤーン朝の都トレムセンとの戦いに多くの時間を割いた。サハラを越える交易路の支配をめぐる、両者の古くからの争いが背景にあった。このころ、メッカのシャリーフから忠誠の誓いを受けたことも、国内を重んじる理由の一つとなった。1288年、ユースフはグラナダ領から移住してきたアスキルーラ族に北アフリカの土地を与えた。同じ年、息子のアブー・アーミルをマラケシュの総督に任じたが、息子は町の人々の影響で父に背いた。1290年には、トレムセンを半年にわたって包囲したが、得るところはなかった。
1291年、カスティーリャ王サンチョ4世が和平協定を破棄したため、再びイベリア半島への出兵が行われた。1292年10月には、アラゴンの海軍の助けを得たカスティーリャが、マリーン朝の拠点タリファを奪った。1294年にはマリーン朝とグラナダが共同でタリファを囲んだが落とせず、この町は二度とイスラーム教徒の手に戻らなかった。イベリア遠征で確かな成果は挙がらなかったため、ユースフは軍事行動を停止してザイヤーン朝への攻撃を再開した。ザイヤーン朝支配下の多くの町がマリーン朝の占領下に入り、1299年にはトレムセンを囲んだ。しかしトレムセンは容易に落ちなかった。攻めあぐねたユースフは、近郊に急造の都市アル・マンスーラを築いた。「勝利者」を意味する名で、一般には「新トレムセン」とも呼ばれた。トレムセンの南西約4キロに建てられ、宮殿やモスク、泉、隊商宿が造られ、ヨーロッパ諸国の商館も置かれた。交易の拠点として栄え、物資に乏しいトレムセンとは対照的に、市場は商品であふれていたという。
宮廷では、侍従のハリーファ・アクバルをはじめとするユダヤ教徒の一族ラッカーサ家と、ほかの廷臣とのあいだで権力闘争が起きていた。ハリーファは宮廷で最も有力な地位を築いたが、1302年、おそらくは他の廷臣の働きかけを受けて、ユースフはラッカーサ家の人々の処刑と財産の没収を命じた。1303年にカスティーリャとグラナダが条約を結び、1304年にはアラゴンもこれに加わって三つの王国のあいだに平和が築かれ、マリーン朝は孤立した。1306年、ナスル朝の君主ムハンマド3世にセウタを占領された。ユースフは1307年、トレムセン包囲のさなかにマンスーラの宮殿で暗殺された。在位は5月10日までとされる。マリーン朝は包囲を解いて撤退し、トレムセンの市民はマンスーラを破壊した。のちにアブー・アルハサン・アリーの治世にトレムセンがマリーン朝の支配下に入ると修復されたが、今はミナレットと城壁だけが残る。
同じ年に亡くなった人物
- テムル (1307年没)
- ユーグ2世 (ブロワ伯) (1307年没)
- ディートリヒ4世 (ラウジッツ辺境伯) (1307年没)
- Anna of Hohenstaufen (1307年)
- エドワード1世 (イングランド王) (1307年没)
同じ地域に関係する人物
- ブルッギン・イブン・ジリ (984年没)
- ターシュフィーン・イブン・アリー (1145年没)
- アブドゥルムウミン (1163年没)
- ザガル (1493年没)
- バルバロス・オルチ (1518年没)