伝記
テムルは、1265年10月15日に生まれた。モンゴル帝国の第6代カアンであり、元の皇帝としては成宗にあたる。名はモンゴル語で「鉄」を意味する。祖父はクビライ、父はその皇太子チンキム、母はコンギラト氏出身の正夫人ココジンで、テムルはチンキムの三男、三人の嫡子の末子であった。チンキムが1286年に亡くなり、クビライに寵愛されていた次兄のダルマバラも1292年に早世したため、テムルはクビライの晩年に後継者の最有力候補となった。若いころは酒に酔うことが多かったが、祖父に人前で何度も鞭打たれてやめたと伝えられる。1287年にはクビライに従ってナヤンらの反乱の鎮圧にあたり、カダアンの乱では鎮圧軍の総司令に抜擢された。このとき共に戦った部下の多くは、即位後に側近として活躍した。
1293年、モンゴル高原に駐留して中央アジアのカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンが召還されると、テムルがその代わりに駐留軍の司令官となり、皇太子の印璽を授けられた。翌1294年にクビライが亡くなると、上都で王族集会が開かれた。後継者選定を主導する母のココジンと、軍事権を握るバヤンは、クビライに皇太子に指名されたテムルを推し、テムルは長兄のカマラを抑えて即位した。ココジンがチンギス・カンの言葉をどちらがよく知るかを競わせる案を出し、テムルが勝ったともいわれる。即位後まもなく孔子を敬う詔を出し、儒学者に近い人物を要職につけたが、宮廷が儒教の原則をすべて受け入れたわけではなかった。民に新たな負担を課すことには反対で、税の免除をたびたび行った。1297年にはモンゴルでの酒の売買と蒸留を禁じた。1299年には、江浙の禅僧の一山一寧を使節として日本に送り、朝貢を促した。クビライよりずっと穏やかな姿勢で、武力で従わせる意図はもうなかったとみられる。一山一寧は鎌倉幕府の北条貞時に国書を渡したが、幕府は真意を疑って一山一寧を抑留し、元の要求には一切応じなかった。これが元が日本へ送った最後の使節団となった。
高原へのカイドゥの侵攻はいよいよ激しくなり、テムルは兄のカマラや従兄弟のアナンダらの大軍を送り込んだが、元軍は敗戦を重ねた。それでも高原西部の王族や貴族は、しだいにカイドゥの先行きを見限って元に降り始めた。1300年にココジンが亡くなると、皇后のブルガンが勢力を持った。焦ったカイドゥは1301年、オゴデイ家とチャガタイ家の諸王をことごとく動員して高原に侵攻した。テムルはダルマバラの長男カイシャンらを追加で派遣し、元軍はカラコルムとタミールでの二度の戦いでカイドゥ軍を大いに破った。カイドゥは戦傷がもとでまもなく没し、チャガタイ家のドゥアは、カイドゥの子でオゴデイ家を継いだチャパルを説得して服属を申し出た。1302年には定められた額以外の徴収を禁じたが、宮中の浪費と税収の減少により、元の財政は慢性的な赤字に悩まされた。1305年、テムルは二人の服従を認め、クビライの即位時の内乱以来分裂していたモンゴル帝国に、45年ぶりの平和的な統合がもたらされた。
テムルは酒と色事に溺れる悪癖のせいで病気がちになり、和平を受け入れたころにはほとんど病床に就いて政務を執れなかった。ブルガンが代わって政務を取り仕切り、権勢を振るった。1307年2月10日にテムルが亡くなると、ブルガンは自らの地位を守るため、従兄弟のアナンダを擁立しようとした。しかしブルガンの専横に不満を持っていた一派が、カイシャンとアユルバルワダの兄弟を擁立して政変を起こし、最終的にカイシャンが即位した。
同じ年に亡くなった人物
- ドゥア (1307年没)
- ディートリヒ4世 (ラウジッツ辺境伯) (1307年没)
- Benedetto I Zaccaria (1307年)
- エドワード1世 (イングランド王) (1307年没)
- クトルン (1307年)