伝記
エドワード1世は、プランタジネット朝のイングランド王で、1272年から1307年まで在位した。1239年6月17日、ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの長男として、ロンドンのウェストミンスター宮殿に生まれた。エドワード証聖王にあやかって名付けられ、それまでフランス名ばかりだった王家で、初めてイングランド風の名を与えられた王である。洗礼の代父は、義理の叔父にあたるレスター伯シモン・ド・モンフォールが務めた。1254年には、フランスのアキテーヌ公領をめぐる牽制として、カスティーリャ王フェルナンド3世の娘エリナーと結婚した。身長は190センチあったとされ、「ロングシャンクス」(長脛王)と呼ばれ、のちには「スコットランド人への鉄槌」とも渾名された。
1258年のオックスフォード条項をめぐって、王権側のヘンリー3世やエドワードと、レスター伯ら改革派諸侯の対立が深まり、1264年に第2次バロン戦争となった。エドワードはルイスの戦いで敗れて父とともに捕虜となったが、1265年に脱走し、同年8月のイーヴシャムの戦いでレスター伯を敗死させて、王室に権力を取り戻した。内乱後は父に代わって国政を主導し、オックスフォード条項は退けたが、貴族の権力を抑えるウェストミンスター条項の流れを汲む改革を確認し、1267年のマールバラ法でその定着を図った。1270年からは第8回十字軍に加わり、その後も聖地へ向かった。
1272年11月にヘンリー3世が崩御したとき、エドワードは帰路のアルプス山麓にあり、外国から王位の継承を宣言した。母エリナーを摂政とし、ガスコーニュの安定とフランドルの貿易問題をめぐる交渉を続けたのち、1274年に帰国して、8月19日にウェストミンスター寺院で戴冠した。法整備は治世の大きな功績で、ローマ法学者フランチェスコ・アックルシを招き、書記官出身のバース司教を大法官に任じて、差押手続きの制限などを進めた。1290年の法は、封臣の数を増やして封建制の崩壊を促し、議会制国家への移行を後押しした。同じ年にはユダヤ人の追放も実施している。
外交では戦争に明け暮れた。1277年と1282年から1284年にかけてウェールズへ侵攻し、大公サウェリンを支配下に置いて併合し、のちにウェールズ大公の称号を皇太子エドワード(のちのエドワード2世)に与えた。1291年にはスコットランドの王位継承争いに介入し、ジョン・ベイリャルを王位に就けて臣従を誓わせたが、1296年に反旗を翻した彼を廃位した。1294年にフランス王フィリップ4世がアキテーヌの没収を宣言したため、フランスとも開戦した。こうした戦費を賄うため、1295年に下級聖職者や州騎士、市民の代表も含めた議会を招集し、これが後世の模範となって「模範議会」と呼ばれた。だが高額の課税は反発を招き、1297年のフランドル出兵をきっかけに諸侯との対立が再燃して、崩御まで解消されなかった。
スコットランドでは、ウィリアム・ウォレスらの抵抗が激しくなった。エドワードはウォレスをフォルカークで破り、のちに捕らえて処刑したが、抵抗はやまず、ロバート・ブルースがロバート1世として即位して反旗を翻した。その追討に出陣した1307年7月7日、エドワードは崩御した。
同じ年に亡くなった人物
- ヘトゥム2世 (1307年没)
- ユーグ2世 (ブロワ伯) (1307年没)
- ドゥア (1307年没)
- カトリーヌ・ド・クルトネー (1307年没)
- フラ・ドルチーノ (1307年没)
同じ地域に関係する人物
- クルト・シュヴィッタース (1948年没)
- レジナルド・ヒル (2012年没)
- Cliff Allison (2005年没)
- ドナルド・ワトソン (2005年没)
- ビアトリクス・ポター (1943年没)