伝記
タシュフィーン・イブン・アリーは、ベルベル人のムラービト朝の君主(アミール)で、1143年から1145年まで在位した。父はアリー・イブン・ユースフ、母はキリスト教徒の女奴隷ダウウ・アッ・サバーフ(「朝の光」の意)であった。体格にも人柄にも恵まれ、容姿が整い、馬術にすぐれ、暮らしぶりは禁欲的に近かったと伝わる。
父の治世に、タシュフィーンは1129年にグラナダとアルメリアの総督となり、1131年にはコルドバの総督も兼ねた。1126年から1137年にかけてはアンダルスの最高総督の地位にあり、アセカ(1130年)、フラガ(1134年)、バダホス(1134年)、エスカロナ(1137年)などで勝利を収め、名声を得た。負けた戦いもあった。1138年に後継者に指名されるとマグリブへ渡り、ムワッヒド朝との戦いの先頭に立った。1138年以降、アンダルスではキリスト教勢力が優勢になり、オレハ(1139年)、コリア(1142年)など重要な要塞が奪われた。これは、モロッコでムワッヒド朝が攻勢を強めていたことにも一因があったとされる。
1143年1月27日に父が没し、タシュフィーンが傾きかけた王座を継いだ。治世の初めには、君主たちの出身であるラムトゥーナ族と、マスーファ族の対立が軍に影を落とし、マスーファ族の一部は、ラムトゥーナ族の優位に不満を抱いてムワッヒド朝に走った。部族が次々に離れていったことが、軍事上の敗北以上に、最後の敗因となったともいわれる。戦費を賄う重い税への民衆の不満も高まっていた。
ムワッヒド朝は、アブドゥルムウミンの指揮のもと、三方から攻勢をかけた。タシュフィーンの弱った軍はこれを止められず、トレムセンの総督は敗れて殺された。タシュフィーンは救援を求めたが、ブジーから来た援軍も破られ、中央モロッコへの退路を断たれて、オランへ退いた。1145年、オランで彼の軍の一部がムワッヒド朝に寝返った。タシュフィーンはアルメリアの艦隊の来援を求め、艦隊は来たものの、包囲が厳しく、軍の撤退も本人の脱出もかなわなかった。身を寄せていた砦や陣営が焼かれる中、からくも脱出したが、海岸へ下ろうとして馬もろとも断崖から落ち、1145年3月23日(25日とも)に死んだ。遺体はムワッヒド朝の兵に首を切られ、その首は指導者のもとへ送られ、残りの遺体は磔にされて焼かれたという。
跡を継いだのは、幼い子のイブラーヒームであったが、ほどなく若い叔父のイスハーク・イブン・アリーに廃された。イスハークはムワッヒド朝がマラケシュを攻め落とした1147年に殺された。
同じ年に亡くなった人物
- セシル・ド・フランス (1145年)
- ガッルス・アノニムス (1145年)
- Uros I of Rascia (1145年没)
- 張択端 (1145年)
- ルキウス2世 (ローマ教皇) (1145年没)
同じ地域に関係する人物
- ザガル (1493年没)
- バルバロス・オルチ (1518年没)
- アブー・ヤアクーブ・ユースフ (1307年没)
- ブルッギン・イブン・ジリ (984年没)
- アブドゥルムウミン (1163年没)