伝記
ブランシュ・ド・フランスは、オーストリア公ルドルフ3世(のちのボヘミア王ルドルフ1世)の最初の妃である。ドイツ語ではブランカと呼ばれる。フランス王フィリップ3世と2番目の妃マリー・ド・ブラバンの娘で、生年は1282年ごろとされるが、1278年とも1285年ともいわれる。異母兄にフィリップ4世とヴァロワ伯シャルル、同母兄にエヴルー伯ルイ、同母姉にイングランド王妃マーガレットがいる。
ブランシュは結婚するまでに、何度も婚約した。1290年9月にナミュール侯ジャン1世、その翌年の1291年7月31日にはイングランドの王太子エドワードと婚約したが、交渉の最中にエドワードの母エレアノールが亡くなった。イングランド王エドワード1世は自分の新しい妃を探すことにし、ブランシュの美貌を聞いて、息子との婚約を解いて自分の妃にしたいと、異母兄フィリップ4世に使者を送った。フィリップ4世は、休戦とガスコーニュのフランスへの割譲を条件に応じ、1293年に代理人による婚約が行われた。しかしイングランドの使者が着くと、ブランシュはすでに別の男との婚約が決まっていたと知らされ、代わりに11歳の姉マーガレットが差し出された。エドワード1世は拒んでフランスに宣戦したが、5年後に休戦し、エドワード1世がマーガレットと結婚することが決まった。1296年には、ホラント伯の子のエノー伯ジャンと婚約したが、ジャンはクルトレーの戦いで戦死した。
フランスは、神聖ローマ帝国との関係で立場を強めていた。フィリップ4世は、ドイツ王アルブレヒト1世と国境の問題を話し合い、異母妹のブランシュを、アルブレヒトの長男であるオーストリア公ルドルフ3世と結婚させる計画を立てた。条約は1299年8月に結ばれ、二人は1300年5月に結婚した。クリスマスには、花嫁が盛大な行列とともにウィーンに入った。アルブレヒトは、ルドルフとブランシュの子孫だけがハプスブルク家の領地の相続人になると定めたが、夫妻の子は早く世を去った。一女が1304年に夭逝したと伝えられる。ブランシュは、夫の不在中に短期間、シュタイアーマルクの摂政を務めた。
没したのは1305年3月1日にウィーンでとする説と、1306年3月19日とする説がある。流産に伴う合併症が原因だった可能性も指摘される。遺体はウィーンのミノリーテン教会に葬られた。夫ルドルフは1306年、ヴァーツラフ2世の未亡人リクサ・エルジュビェタと再婚してボヘミア王位を得たが、1307年に病死した。
同じ年に亡くなった人物
- モーシェ・デ・レオン (1305年没)
- ルジェ・ダ・ラウリーア (1305年)
- ギー (フランドル伯) (1305年没)
- ウィリアム・ウォレス (1305年没)
- ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王) (1305年没)
同じ地域に関係する人物
- エーミール・ツッカーカンドル (1910年没)
- ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝) (1790年没)
- ヨハネス・ブラームス (1897年没)
- アントン・ブルックナー (1896年没)
- マリア・テレジア・ツー・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク (1935年没)