伝記
プブリウス・ウェルギリウス・マロは、紀元前70年10月15日に生まれ、紀元前19年9月21日に没した、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人である。共和政ローマ末の内乱の時代から、オクタウィアヌス、のちのアウグストゥスの台頭による帝政確立期にかけて生涯を過ごし、『牧歌』『農耕詩』『アエネーイス』の三作品によって知られる。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学で最も重視される人物とされる。
マントゥア近郊のアンデスという村に生まれた。父は陶工とも、役人に雇われていたとも言われ、主人のマギウスに見込まれてその娘マギアを娶り、養蜂で資産を築いた。三人の子に恵まれたが、生き残ったのは末っ子のプブリウスだけだった。少年期にクレモナで教育を受け、15歳でメディオラーヌムに出て、さらにローマで修辞学、弁論術、医学、天文学などを修めた。しかし健康状態が悪く、頭痛と胃痛に悩まされ、ときには吐血することもあったという。話し方が遅かったためか、一度裁判弁論を行って失敗し、内向的な彼はその後、哲学を学んだ。おそらく彼の真作と思われる『カタレプトン』の告白からは、心の平安を目指すエピクロス派に惹かれていたことがうかがえる。ナポリでエピクロス派のシロンに哲学を学んでいたころに詩作を始めたともいうが、20代後半までの足跡ははっきりしない。
紀元前44年にカエサルが暗殺され、フィリッピの戦いの後にオクタウィアヌスが退役兵をイタリア各地に入植させると、ポッリオ、ウァルス、ガッルスら土地分配を担当する三人委員が、ウェルギリウスのマントゥアの土地を没収した。のちに返還されたか、補償金が支払われたとみられている。この騒動や、ガッルスの助力を得てオクタウィアヌスに直接交渉しに行った様子が、『牧歌』に歌われたと伝えられてきた。ただし、作品から伝記的事実を読み取る解釈には慎重な見方もある。ポッリオの庇護のもとで完成した『牧歌』は紀元前39年から出版され、オクタウィアヌスの寵臣マエケナスの目にとまった。以後、ホラティウス、プロペルティウス、ウァリウスらが集うサークルの一員となり、『農耕詩』の制作に取りかかった。ホラティウスは彼を「わたしの魂の半分」と呼んだほど深い親交があった。詩作は主にネアポリスで行い、恥ずかしがり屋の姿から「パルテニアス(乙女)」とあだ名されたという。
完成した『農耕詩』は、紀元前29年、アクティウムの海戦に勝ってローマへ凱旋するオクタウィアヌスの前で、ウェルギリウス自身が、疲れるとマエケナスが交代して、数日かけて歌い上げたという。その後、『アエネーイス』の制作に着手した。アウグストゥスは遠征先からも進捗を気にして手紙を出した。紀元前19年、舞台となるギリシアと小アジアを巡ったのち、アテナイでアウグストゥスと合流して帰途についたが、メガラで熱射病にかかり、ブルンディシウムに着いたところで息を引き取った。50歳で独身だった。自分に何かあれば原稿を焼き捨てるよう友人に頼んでいたが、叶わないと知るとウァリウスらに遺稿を託し、アウグストゥスの強い意向で未完成のまま出版された。遺骨はネアポリスからプテオリへ向かう道沿いの塚の下に葬られ、「われはマントゥアに生まれ、カラブリアで世を去った」に始まる墓碑銘が伝わる。
同時代のウァリウスによる伝記は4世紀までに散逸し、一部はスエトニウスの『ウェルギリウス伝』などに引用されて残った。ただ、詩の内容から現実の出来事を推測した記述も混じるため、そこに描かれた生涯のすべてを鵜呑みにはできないと指摘されている。
同じ年に亡くなった人物
- アルタクシアス2世 (紀元前19)
- アルタヴァスデス1世 (紀元前19)
- 東明聖王 (紀元前19年没)
- アルビウス・ティブッルス (紀元前19年没)
- シケリアのディオドロス (紀元前 19年)
同じ地域に関係する人物
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