伝記
ルドヴィーク・スヴォボダは、1895年11月24日(25日ともいわれる)に生まれ、1979年9月20日に没したチェコスロヴァキアの軍人、政治家である。大将で、1968年から1975年まで大統領を務めた。チェコスロバキア社会主義共和国英雄の称号を三度受けている。
トシェビーチ近郊のフロズナチーンで、農民の家庭に生まれた。父は1歳のときに亡くなり、母フランチシュカが再婚した継父のもとで育った。ヴェルケー・メジジーチーの農業学校に通い、ぶどう園で働いた。1915年にオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集され、ロシア戦線に送られた。同年9月18日にタルノポリでロシア軍の捕虜となり、チェコ人のグループを率いて投降したとも伝えられる。1916年にチェコ軍団に入り、ズボロフやバフマチの戦いに加わった。シベリアを回る長い旅を経て帰国したという。
1920年に帰国し、1921年からチェコスロバキア軍の将校となった。1923年にイレナ・ストラチロヴァーと結婚した。ハンガリー語を習得し、1931年から1934年まで軍事アカデミーで講師を務めた。1934年に中佐に昇進し、歩兵大隊長となった。1939年3月にドイツ軍がチェコスロバキアを占領すると、反ファシストの地下軍事組織「国民防衛」に加わった。同年夏にポーランドへ出国し、最年長の上級将校としてクラクフでチェコスロバキア人部隊を編成した。ここには亡命を図る数百人の若い将校が通過した。ところが9月にポーランドが敗れたため、700人以上の将校と兵士を連れてソ連に移った。この部隊は抑留所で、チェコスロバキア軍の規則に従って暮らした。外交代表がソ連にいなかったため、スヴォボダは約2年にわたってソ連当局と交渉し、部隊をまとめ、将校らを反ドイツの国々へ送り出した。
第二次世界大戦中の1942年2月に第1チェコスロバキア独立歩兵大隊の創設を発議し、1943年3月から戦闘に加わった。1943年に大隊は旅団に昇格し、キエフ、ベーラ・ツェールコヴィ、ジャシュコフで戦った。1944年以降は第1チェコスロバキア軍団を率い、赤軍とともにチェコスロヴァキアを解放した。この功績から戦後に国防大臣となり、1948年にチェコスロバキア共産党に入党して国会議員に選ばれた。1950年から1951年には政府副議長と国家体育・スポーツ問題委員会議長を兼ね、1955年から1959年にはゴットヴァルト名称軍事アカデミーの校長を務めた。
1968年3月、辞任したアントニーン・ノヴォトニーに代わって大統領に就任し、ドゥプチェクらと並んで「プラハの春」を象徴する顔となった。8月にワルシャワ条約機構軍が軍事介入した際は、親ソ派による革命労農政権の樹立に断固反対し、直接モスクワへ飛んでソ連指導部と事態の収拾にあたった。ソ連邦英雄でもあるスヴォボダを、ソ連は最大級の歓迎に恫喝を交えて取り込もうとしたが、スヴォボダは逮捕・軟禁されたドゥプチェクたちの解放を要求し続け、実現した。1973年に大統領に再選され、1975年に病気で辞任するまで地位に留まったが、フサークの進める「正常化」路線で、影響力をほとんど持てなかった。1979年9月20日、心臓発作のためプラハ市内の国立療養所で死去した。83歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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