伝記
ベネディクトゥス11世は、14世紀初めのローマ教皇で、1303年10月22日から1304年7月7日まで在位した。トレヴィーゾの出身で、本名をニコラ・ボッカシーニという。1240年に生まれ、ドミニコ会士から教皇にまで上った人物である。父ボッカージオはトレヴィーゾの公証人で、叔父は司祭であり、母ベルナルダはドミニコ会の修道士たちの洗濯を請け負っていた。姉妹にアデレッテがいた。1246年に父が亡くなり、孤児同然となった母子に、あるドミニコ会士が遺言で財産を残した。ニコラがドミニコ会に入れば、その半分を受け取れるという条件が付いており、六歳のころから修道の道が定められていたと考えられる。最初の教師は司祭だった叔父であった。
1254年、14歳でトレヴィーゾのドミニコ会に入り、修練士の衣を受けた。院長に連れられてヴェネツィアへ行き、管区長の指示で聖ジョヴァンニ・エ・パオロ修道院に配属された。その後およそ7年間、ここで基礎教育を受け、終わりごろにはヴェネツィアの名家の幼い息子たちの家庭教師も務めた。1262年にはミラノのサンテウストルジョ修道院に新設された学院へ移り、6年ほどを過ごした。正式に会士となった時期は分かっていないが、この間に誓願を立てていたはずだとされる。その後、修道院で兄弟たちの初等教育を担う講師を1268年から1282年まで14年間務め、1276年から1280年ごろには故郷トレヴィーゾの修道院で、1282年2月にはジェノヴァで、それぞれ講師を務めていた記録がある。大学の学位は持たず、大学を出ていない最後期の教皇の一人であった。
1286年にブレシアでの管区総会でロンバルディア管区長に選ばれると、生活は一変した。一つの修道院に落ち着く暮らしをやめ、約51あった修道院を巡って視察や激励、矯正にあたった。異端審問官の任務も負い、毎年の管区総会を招集する責任もあった。総会は1287年にヴェネツィア、1288年にリミニで開かれている。1289年に3年の任期を終えて退いたが、1293年に再び管区長に選ばれ、1296年まで務めた。同年、ストラスブールでの総会でドミニコ会総長に選ばれ、ボニファティウス8世の教皇選出の正統性を、会士が公然と疑うことを禁じる規則を出した。
1298年12月4日、ボニファティウス8世によって枢機卿に叙され、サンタ・サビーナの司祭枢機卿となった。1300年3月2日にはオスティアの司教枢機卿に昇り、司教叙階も受けた。1301年5月にはハンガリー駐在の教皇使節に任じられ、6月に出発して1303年5月に戻り、フランスにも使節として赴いている。1303年9月、ボニファティウス8世がアナーニで捕らえられたとき、ボッカシーニは、司教館の中で教皇を守った二人の枢機卿のうちの一人であり、三日間拘束された。
1303年10月22日に教皇に選ばれたが、在位は8か月ほどで、1304年7月7日に急死し、毒殺されたともいわれる。当時はアナーニ事件とアヴィニョン捕囚の間の時期で、フランスと教皇庁との関係は難しいものであった。死後、福者に列せられ、1736年にクレメンス12世が崇敬を認めた。トレヴィーゾの守護聖人でもある。
同じ年に亡くなった人物
- アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公) (1304年没)
- 後深草天皇 (1304年没)
- アグネス・フォン・ブランデンブルク (1304年没)
- アルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯) (1304年(推定))
- マティルデ・フォン・ハプスブルク (1304年没)
同じ地域に関係する人物
- ウルバヌス4世 (ローマ教皇) (1264年没)
- マルティヌス4世 (ローマ教皇) (1285年没)
- ガレアッツォ・アレッシ (1572年没)
- クラウス・フーバー (2017年没)
- ニコラウス・クザーヌス (1464年没)