伝記
マティルデ・フォン・ハプスブルクは、1251年から1253年にかけての間に生まれたとされる。ルドルフ1世と、その妻ゲルトルート・フォン・ホーエンベルクの長子であり、生まれた地はラインフェルデンといわれる。十人の弟妹がおり、のちにローマ王となるアルブレヒト1世も弟にあたる。1273年9月1日に父ルドルフがローマ王に選出されるまで、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国のなかでそれほど重要な家門ではなかった。
選帝侯は、大空位時代と呼ばれる長い空白ののち、ルドルフを全員一致で王に選んだ。ルドルフは自らの王位と統治を固めるため、周到な結婚政策を進め、長女のマティルデをバイエルン公ルートヴィヒ2世に嫁がせた。ルートヴィヒ2世は、ルドルフを王に選ぶと公言していた選帝侯の一人で、味方につけることは父の利益になった。1273年10月24日、アーヘンで行われたルドルフの戴冠の日に、二人の結婚式もあげられた。マティルデはおよそ20歳、夫は44歳で、マティルデはその3番目の妃となった。妹のアグネスも同じ日に、ザクセン=ヴィッテンベルク公アルブレヒト2世と結婚した。このときから、ハプスブルク家は帝国内で最も権力を持つ家門の一つとなった。ルドルフは持参金として銀15,000マルクを用意し、ルートヴィヒ2世は結婚に際してノイシュタットの町をマティルデに贈った。1274年には、ルドルフが娘夫婦にヴァッヘンハイム城を与えた。夫婦は五人の子をもうけたとされ、1274年には長男ルドルフが生まれた。マティルデは、裁判や公証、法律を扱う自身の法廷を持ち、ドミニコ会のアルテンホーエナウ修道院の後援者でもあった。夫と父は政治面で緊密に協力し、夫がたびたび王の宮廷の集まりに出席したため、マティルデも夫とともに家族のもとを訪れ、母や妹たちと密に連絡を取り合うことができた。
弟のハルトマンは1281年に溺れて死に、もう一人の弟のルドルフ2世はシュヴァーベン公となったが、1290年に亡くなった。1291年に父ルドルフが亡くなると、アドルフ・フォン・ナッサウがローマ王となった。弟のアルブレヒトと、彼を支持する夫ルートヴィヒ2世は、これを渋々受け入れた。国王選挙ののち、夫はナッサウ家と結びつくため、長男ルドルフとアドルフの娘メヒティルトの結婚を決めた。1294年2月に夫が64歳で亡くなると、マティルデは末の息子ルートヴィヒ(のちの皇帝ルートヴィヒ4世)が成人するまで、その摂政を務めた。一方でマティルデは、ヴィッテルスバッハ家のために下される決定が、弟アルブレヒトの不利益につながることに気づいた。弟と、長男ルドルフが支持するアドルフとが対立するなかで、マティルデは調停役になろうとした。また、長男の結婚のため、ハイデルベルク周辺とライン川沿いにあった寡婦財産は、上バイエルンとオーバープファルツに交換されることとなった。
ヴィッテルスバッハ家の分割相続により、上バイエルンは下の息子ルートヴィヒに与えられることになった。しかし長男ルドルフは、弟の後見人となって上バイエルンの相続権を主張しようとした。これが原因で母と長男は対立した。1302年、マティルデはミュンヘンで長男に拘束され、今後は政治に関与しないという約束を余儀なくされた。ところが解放されたのち、マティルデは約束を反故にして、弟のアルブレヒトを支持した。マティルデは1304年12月23日(22日とも)にミュンヘンで亡くなり、夫とともにフュルステンフェルトの修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- バルトロメオ1世・デッラ・スカラ (1304年没)
- コンラート (ブランデンブルク辺境伯) (1304年)
- ジャン2世 (エノー伯) (1304年没)
- 後深草天皇 (1304年没)
- ジャン・ド・マン (1304年)
同じ地域に関係する人物
- レオンハルト・フランク (1961年没)
- オットー2世 (バイエルン公) (1253年没)
- カール・シュピッツヴェーク (1885年没)
- ヒアツィント・シュトラハヴィッツ (1968年没)
- マックス・エマヌエル・イン・バイエルン (1893年没)