伝記
後深草天皇は、1243年6月、後嵯峨天皇の第三皇子として生まれた。母は中宮の西園寺姞子(大宮院)である。外祖父で太政大臣の西園寺実氏の邸で誕生し、生後2か月で皇太子に立てられた。1246年正月、父の譲位を受けて数え4歳で即位し、第89代の天皇となった。在位中は後嵯峨上皇が院政を敷き、天皇が直接政務を見ることはなかった。幼少時に宣陽門院の猶子となり、1251年にはその所領である長講堂領を譲り渡された。1258年からは33年間にわたって日記『後深草院宸記』を記している。1259年に瘧病を患い、同じ年の11月、後嵯峨上皇の要請を受けて17歳で弟の亀山天皇に譲位した。
父母が自分よりも弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに、後深草上皇は不満を抱いていた。1267年、後嵯峨院は出家に先立って長講堂領の一切の権利を後深草院に譲った。この所領はのちに持明院統の天皇に受け継がれ、その主な経済基盤となった。1268年、後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子熈仁親王を差し置いて、亀山天皇の皇子世仁親王が皇太子に立てられた。ここから後深草の血統である持明院統と、亀山の血統である大覚寺統の対立が始まる。1272年に後嵯峨法皇が、治天と皇位の決定権をすべて鎌倉幕府に委ねる形で亡くなると、幕府は兄弟のどちらとも決めかねて、二人の母である大宮院に諮問した。法皇の本心は亀山天皇の親政にあるとの答えを得て、亀山親政が決まった。1274年1月、亀山天皇は後宇多天皇に譲位して院政を始めた。これに不満を抱いた後深草上皇は、翌1275年、太上天皇の尊号を辞退して出家する意思を表明した。後深草寄りの関東申次で、大宮院の甥にあたる西園寺実兼が執権の北条時宗と折衝し、熈仁親王はその年のうちに皇太子に立てられた。
1280年ごろから、後深草上皇の側では、後宇多天皇を退位させて皇太子を擁立しようとする動きが強まった。背景には、1285年の霜月騒動で安達泰盛を滅ぼした平頼綱が、泰盛の改革と連動して京で朝廷改革を行うなど親密だった亀山上皇を危険視したことがあるとされる。1287年10月、内管領平頼綱が主導する幕府の要請により、熈仁親王が伏見天皇として即位し、後深草上皇は院政を開始した。『後深草院宸記』には、この即位に関する記事が残り、細かい手はずまで自身で整えていた様子がうかがえる。即位式に向かう伏見院の御幸を、母の大宮院、中宮の西園寺公子、娘の姈子とともに見物した際には、涙を浮かべるほど感激したという。1289年4月には伏見天皇の皇子胤仁親王が数え2歳で皇太子となり、10月には皇子の久明親王が鎌倉将軍として下向した。その後しばらく持明院統に有利な体勢が続いた。
1290年2月、後深草上皇は出家して法諱を素実とし、公式の院政を停めた。その後もたびたび伏見天皇から諮問を受け、政治への関与は続き、持明院統の中心として家の繁栄に努めた。1304年、冷泉富小路殿で亡くなった。宝算は62であった。陵は京都市伏見区の深草北陵とされ、持明院統の歴代が葬られていることから「深草十二帝陵」とも呼ばれる。深草山中に葬られたのは、天皇が生前に望んだためという。
後深草天皇は今様、朗詠、琵琶などの音楽に関心が強く、琵琶は藤原博子に師事した。亀山院と同席して管絃の遊びを行う際には、後深草院が琵琶、亀山院が笛を担当するなど、役割を分けていたようである。亀山院が自分より先に琵琶の秘曲を伝授されると聞いたときには、その時期に疑念を抱き、日記に書き残した。腰に患いがあったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・ド・マン (1304年)
- バルトロメオ1世・デッラ・スカラ (1304年没)
- ジャン2世 (エノー伯) (1304年没)
- マティルデ・フォン・ハプスブルク (1304年没)
- アルブレヒト3世 (ブランデンブルク辺境伯) (1304年(推定))
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