伝記
ニコラウス・クザーヌスは、1401年、ドイツ南西部のモーゼル河畔の町クースに生まれた。裕福な船主で渡し守でもあったヨハン・クレープスの子で、4人きょうだいの2番目だった。幼い頃の記録は不明確であるが、父親には理解されず苦しんだようだとされる。領主の援助を得てオランダに遊学し、共同生活兄弟会の予備学校で教育を受けたとみられる。1416年にハイデルベルク大学の自由学芸学部に入り、まもなく去ったらしく、1423年にはパドヴァ大学で教会法の博士号を得た。パドヴァでは、のちに枢機卿となるジュリアーノ・チェザリーニやドメニコ・カプラニカと出会い、数学者トスカネッリと友人になった。
1425年にドイツへ戻り、ケルン大学で教会法を講じるとともに、ハイメリクス・デ・カンポに学んで、偽ディオニシウス・アレオパギタ、アルベルトゥス・マグヌス、ライムンドゥス・ルルスらの思想に触れた。古い写本や原典を調べる力にも優れ、写本発見家として人文学者たちに名を知られた。1433年には「コンスタンティヌスの寄進状」が偽物だと見抜き、数年後にロレンツォ・ヴァッラがこれを裏づけたという。天文学者ペウルバハと親交を結び、ユリウス暦と復活祭算定の改革を唱えたが、実現したのは1582年のグレゴリオ暦の導入だった。
1430年に司祭に叙階された。1432年、トリーア大司教位をめぐる争いで、候補者の一人ウルリヒ・フォン・マンダーシャイトの代理としてバーゼル公会議に出席した。ウルリヒの野心は実らなかったが、その弁論によって調停者・外交官としての評判を得た。この頃に最初の著作『普遍的和合について』を書き、教会と帝国を、位階と同意の均衡で捉えた。当初は公会議派として活躍したが、のちに教皇派に理解を示すようになり、この柔軟さは当時、誤解を生む行動でもあったようである。1437年から翌年初めにかけて、東西教会の合同をはかる1439年のフィレンツェ公会議に備えてビザンツ皇帝らを迎えるため、教皇の承認を得た使節団の一員としてコンスタンティノープルへ赴いた。合同は長続きしなかった。彼は、この帰路の船上で神の光に照らされる体験をしたことが『知ある無知について』を書く動機になったと、のちに述べている。この書は1440年2月12日に書き終えられた。
1448年か翌年に教皇ニコラウス5世から枢機卿に任じられ、1450年にはチロルのブリクセン司教となり、ドイツ諸地方への教皇使節として改革の推進を託された。強い抵抗に苦しめられながらも改革に取り組んだ。晩年は、終生の友人であったピウス2世の十字軍構想に従い、病身を押してローマを出立したが、1464年8月11日、トスカネッリに看取られてトーディで没した。
彼は、神の本質をあらゆる対立の統一、つまり反対者の一致と捉え、無限のなかでは極大と極小、すなわち神と被造物が一致すると説いた。すべての被造物は神の映しであり、個性を保ちつつ互いに調和し、なかでも人間は自覚的に神を映す存在だとした。対立するものに調和をもたらそうという思想のもと、東西教会、キリスト教とイスラム教やユダヤ教、公会議派と教皇派など、さまざまな立場に理解を示して行動を続けた。その思索は中世から近代的思考を準備したと評価され、ブルーノ、ケプラー、ライプニッツ、ヤスパースらにも影響を与えたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ザガン・パシャ (1464年没)
- ピウス2世 (ローマ教皇) (1464年没)
- ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公) (1464年没)
- マルゲリータ・ディ・サヴォイア (1390-1464) (1464年没)
- ロヒール・ファン・デル・ウェイデン (1464年没)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス (253年没)
- アッシジのフランチェスコ (1226年没)
- Niccolo di Liberatore (1502年没)
- ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス (253年没)
- ペルジーノ (1523年没)