HISTORICAL PERSON · 1302年没

コンスタンサ・デ・シシリア

シチリア王マンフレーディの娘。夫アラゴン王ペドロ3世を後押ししてシチリアの晩祷事件に乗じ島を征服させ、シチリア王国の共同君主となった。

生涯
1302年没
死亡地
スペイン王国(バルセロナ県 / バルセロナ)
出生地
イタリア共和国(カターニア)
出典
世界地図
スペイン王国(バルセロナ県)

伝記

コンスタンサ・デ・シシリアは、シチリア王マンフレーディとサヴォイア家出身の王妃ベアトリーチェの娘で、アラゴン王ペドロ3世の妃となった女性である。1249年にシチリア島東部のカターニアで生まれたとされるが、1248年とする説もあり、中世の記録には1247年から1250年までの幅がある。父マンフレーディは、皇帝フリードリヒ2世の孫にあたる幼いコッラディーノが成人するまでの摂政を命じられたにすぎなかったが、教皇の反対を抑えて1257年までに王国のほぼ全土を支配し、1258年にパレルモ大聖堂でシチリア王として戴冠した。コンスタンサは1261年、乳母ベッラ・ダミーコとともにバルセロナへ送られ、翌1262年7月5日、モンペリエで14歳のとき、アラゴン王ハイメ1世の長男ペドロと結婚した。1263年には教皇ウルバヌス4世がホーエンシュタウフェン家の支配を封じるため、フランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューをシチリア王とした。1266年、父はベネヴェントの戦いでシャルルに敗れて命を落とし、シチリアの有力な家柄がアラゴンへ亡命した。1268年にはコッラディーノがナポリで斬首され、コンスタンサはホーエンシュタウフェン家で唯一の男系子孫となった。

ペドロは1276年に父の跡を継いで、アラゴン王となった。コンスタンサは、シチリア王国を取り戻そうとする夫を後押しした。ペドロは1281年、アンジュー家の支配に不満をもつ貴族に、チュニジア攻略の十字軍への参加を呼びかけ、教皇マルティヌス4世の支援を受けないまま、翌1282年6月にバルバリアへ上陸した。同じ年の春にシチリアの晩祷事件が起きると、コンスタンサは夫にシチリアへ介入するよう導いたという。ペドロは8月、トラーパニに兵600人と歩兵8000人とともに上陸した。メッシーナを包囲していたシャルル・ダンジューは撤退し、ペドロはまもなく全島を征服して、1282年8月30日、夫妻はパレルモでシチリア王位を宣言した。コンスタンサは、夫が島を進んでイタリアの海岸沿いへ進出するあいだ、内陸部の統治を支えたともいわれる。

1283年、教皇マルティヌス4世がペドロを破門し、アラゴンの王座は失効したと通告した。ペドロはバルセロナへ戻るにあたり、シチリアの統治を妻コンスタンサに委ねた。1285年に夫が没したあとも、彼女はシチリアの統治を続けた。長男アルフォンソ3世が1291年に独身のまま死去し、1296年にアラゴン王位を継いだハイメ2世は、シチリア王位を弟フェデリーコに与えた。1297年、ハイメ2世はアンジュー家のナポリ王カルロ2世と講和条約を結び、コンスタンサの娘ヨランダは同年3月にナポリ王子ロベルトと結婚した。コンスタンサはアラゴンに戻り、晩年をバルセロナのサンタ・クララ修道院で過ごした。1302年4月9日にバルセロナで没し、サン・フランシスコ修道院に葬られたとされるが、サンタ・クルス大聖堂に墓があるとも伝わる。

ペドロ3世との間には4男2女が生まれた。アルフォンソ3世はアラゴン王、ハイメ2世はシチリア王を経てアラゴン王、イサベルはポルトガル王ディニス1世と結婚して後に列聖された。フェデリーコ2世はシチリア王、ヨランダはナポリ王ロベルトと結婚し、ペドロは1296年に没した。

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