伝記
ムハンマド2世は、第2代のナスル朝グラナダ王国の君主である。アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・ムハンマドといい、1235年または1236年に、アルホーナの町を出自とするナスル氏族に生まれた。後のナスル朝の宰相イブン・アル=ハティーブによれば、一族は預言者ムハンマドの教友の子孫とされ、アルホーナに農民として定住した。父ムハンマド1世は1232年にアルホーナで自立し、1244年にこの町を失ったあと、グラナダを中心にイベリア半島南部で国家を築いた。兄ファラジュの死後の1257年、父はユースフとムハンマドを後継者と宣言した。同じ年の8月には長男のムハンマド(後のムハンマド3世)が生まれた。ムハンマドは父のもとで宰相を務め、子を残さなかったユースフの死後に唯一の後継者となった。
ナスル朝は、北のカスティーリャ王国と南のマリーン朝という二つの大国に挟まれていた。カスティーリャ王フェルナンド3世が定めた貢納金は年間30万で、ナスル朝の歳入の約半分にあたった。さらに、アルホーナのアシュキールーラ家が早ければ1266年から父に反抗し、カスティーリャ王アルフォンソ10世の支援を受けていた。1273年1月22日、父は落馬した際の負傷がもとで世を去り、ムハンマドが38歳で君主の地位を継いだ。1273年の後半、ムハンマド2世はセビーリャでアルフォンソ10世の宮廷を訪ね、臣下となって毎年30万マラベディの貢納金を払う代わりに、アシュキールーラ家への支援を打ち切らせる約束を得た。ところが貢納金が支払われると、アルフォンソ10世は取引の一部を反故にし、アシュキールーラ家への支援を続けた。
失望したムハンマド2世は、マリーン朝の君主アブー・ユースフに支援を求めた。1275年4月、アブー・ユースフは息子アブー・ザイヤーンに騎兵5,000人を含む軍を率いさせた。6月にはムハンマド2世がマラガのアシュキールーラ家を攻めて撃退され、7月にアブー・ザイヤーンがタリファに上陸して町を占領した。8月17日にはアブー・ユースフ自身も海を渡ったが、マリーン朝はナスル朝とアシュキールーラ家を対等に扱い、ムハンマド2世はこれに気分を害して3日後に軍を去った。9月にイスラーム教徒の軍はカスティーリャ軍に大勝したが、ナスル朝の部隊の貢献は小さく、ムハンマド2世自身はグラナダにとどまっていたとも伝えられる。
1279年、ムハンマド2世は外交工作でアシュキールーラ家の本拠マラガを手に入れた。だが各勢力の反発を招き、1280年にはカスティーリャ、マリーン朝、アシュキールーラ家から同時に攻められた。アルフォンソ10世と息子サンチョの内紛や、北アフリカ出身者の軍隊アル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの助けで危機を免れ、1284年にアルフォンソ10世が、1286年にアブー・ユースフが没して脅威は収まった。1292年にはサンチョ4世のタリファ攻略に協力したが、町は引き渡されなかった。再びマリーン朝と組んだ1294年の奪還の試みも失敗した。1295年にサンチョ4世が没し、幼いフェルナンド4世が継ぐと、その混乱に乗じてカスティーリャの町を奪った。アラゴンと共同でカスティーリャを攻める計画を進めたが、実行の前の1302年4月8日に没した。王室儀典や宮廷書記官の制度を整え、宰相の官職の重みを高め、国境の要所に防衛施設を築いた。アルハンブラ宮殿を拡張し、ジェノヴァやピサの商人との交易も広げた。「法学者」を意味するアル=ファキーフの通り名は、高い教養と学者や詩人を好む気質を映すとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨランダ・ダラゴナ (1302年没)
- チマブーエ (1302年没)
- ロベール2世 (アルトワ伯) (1302年没)
- アーディル・キトブガー (1302年没)
- Matthew of Aquasparta (1302年)
同じ地域に関係する人物
- Badis ben Habus (1073年没)
- アルペトラギウス (1204年没)
- イスマーイール1世 (ナスル朝) (1325年没)
- Jose Iglesias Fernandez (2007年没)
- ユースフ1世 (ナスル朝) (1354年没)