伝記
ヘルフタのゲルトルードは、大ゲルトルートとも呼ばれるドイツの神秘家で、ベネディクト会の修道女である。1256年1月6日に、おそらくテューリンゲンで生まれた。両親や出身地は分かっておらず、幼いうちに孤児となったのではないかとされる。1261年、5歳のころ、ザクセンのアイスレーベン近郊にあるヘルフタ修道院の附属学校に預けられた。修道女たちはベネディクトの戒律を守り、ハレのドミニコ会士の霊的な指導を受けて、シトー会に霊的に結びついていた。院長はハッケボルンのゲルトルードで、その妹のハッケボルンのメヒティルトが、当時20歳ほどでゲルトルードの教育を任された。
ゲルトルードは、ごく早くから才能のある生徒として頭角を現した。ヘルフタの教育は質が高く、自由七科のほか、聖書と教父の研究も求められた。幼いころからラテン語を得意とし、アレクサンドリアのカタリナや聖アグネスに傾倒した。1280年の待降節から翌年の2月2日にかけて、精神的な問題に見舞われた。1281年1月27日、25歳で正式な修道女となっていた彼女は、終課のあとに幻視を得て、この日を内面の回心の時と考えるようになった。過去の怠慢を自ら責めて、世俗の学問を捨て、内面の生活を深めることに専念した。以後は、読書と黙想、写本の筆写、聖歌隊での祈りの歌、病室での静養、神秘的な恵み、修道女たちの霊的な導きに生活を分けた。アウグスティヌスや大グレゴリウス、クレルヴォーのベルナルドゥス、サン・ヴィクトルのフーゴーの神学を学び、マクデブルクのメヒティルトやハッケボルンのゲルトルード、ハッケボルンのメヒティルトらからも影響を受けた。
この間、修道院には試練が続いた。1284年、ヘルフタはある修道女の兄弟たちとその家臣によって荒らされた。1289年に、ゲルトルードは『神の愛の使者』を書いた。幻視と啓示を記した全5巻の書で、完全に伝記的な内容なのは第2巻だけである。ほかに、洗礼の誓いを軸にした7つの黙想による霊的な導きの書『霊的修行』もラテン語で書いた。中世ドイツ語で書いた聖書の小論や教父の抜粋集もあったが、今は失われている。1291年、院長のゲルトルードが卒中で死去した。1295年には、借金のため修道院に聖務停止が科され、修道女たちは秘跡を受けられなくなった。1298年には、親友のメヒティルトが死去した。ゲルトルードは、その打ち明け話を『特別な恩寵の書』にまとめていた。同じ年に新しい院長が辞任した。後任が決まったのは1303年である。
ゲルトルードは、その院長が欠けた時期に、1301年か1302年の11月17日に世を去った。『神の愛の使者』は修道院の仲間たちの証言を伴い、集団で書かれた面がある。彼女はシトー会に共通する霊性に立ち、雅歌の霊的な解釈から、イエスの心への前例のない注意を育て、聖心への信心の先駆者の一人とされる。1536年には、ケルンのカルトゥジア会士の手で『神の愛の使者』のラテン語版が出版された。1674年には、ベネディクト会全体で彼女の祝日を祝うことが認められた。ローマ殉教録への記載は、教皇インノケンティウス11世による1677年とも、1678年ともいわれる。祝日が全教会のものとなったのは1738年とも、1783年ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンサ・デ・シシリア (1302年没)
- Henry I of Mecklenburg (1302年)
- ロベール2世 (アルトワ伯) (1302年没)
- Eudokia Palaiologina (1302年)
- ヨランダ・ダラゴナ (1302年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯) (1525年没)
- フリードリヒ・フォン・ショルツ (1927年没)
- グスタフ・ランゲ (1889年没)
- ウルリッヒ・ミューエ (2007年没)
- クルト・シュプレンゲル (1833年没)