伝記
レーヴ・ダヌィーロヴィチは、リューリク朝の公の一人で、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の第4代の公である。1228年に、大公国の2代公ダヌィーロ・ロマーノヴィチと、ムスティスラーヴ・ムスティスラーヴィチの娘アンナの次男として生まれた。幼いころ、父が対立する公の連合を破って、ハールィチの支配を取り戻したヤロスワフの戦いに加わった。兄イラクリイが1240年に死ぬと、父の跡継ぎとして重んじられるようになった。1245年にはベルズ公となり、1247年には、父の反モンゴル連合を完成させるために、ハンガリー王ベーラ4世の娘コンスタンツィアと結婚した。1252年には弟ロマンを助けてボヘミアに赴き、バーベンベルク家の後継をめぐる争いに加わり、同じ年にバコタ付近でタタール人と戦った。1250年代にはモンゴルの長クレムサと戦って多くの勝利を重ね、リトアニア人やヨトヴィンゲン人とも父を助けて戦った。1259年、父がノガイの率いるモンゴル軍に敗れると、大公国は再びジョチ・ウルスに従属し、モンゴルの先兵としてヨーロッパ諸国へ出兵した。
1264年に父ダヌィーロが死ぬと、ペレームィシュリ公国の公を継ぎ、父が自分の名にちなんで築かせたリヴィウに、公座を移した。弟シュヴァールノが1267年にリトアニアの王位に就いた直後、レーヴはリトアニア大公ヴァイシュヴィルカスの殺害を画策したとされる。1269年にシュヴァールノが位を失うと、リトアニアとの争いが起きた。1271年から1272年にはボレスワフ側に立ってポーランドの継承戦争に加わり、1272年にはハールィチ・ヴォルィーニ大公国の首都を、ハールィチからさらに西のリヴィウに遷した。1274年から1276年には新しいリトアニアの支配者トライデニスと戦って敗れ、ナヴァフルダクを含む黒ルーシがリトアニアに併合された。シュヴァールノが死ぬと、レーヴはハルィチナーの全域とヴォルィーニの領地を受け継いだ。
レーヴはジョチ・ウルスの支配下にありながら、モンゴルと協力してポーランドに侵攻し、領土を増やそうとした。同時に、反モンゴルの政策をひそかに抱き続けていたともいわれる。1279年にボヘミア王ヴァーツラフ2世と結んでポーランドを攻めたが、1280年のクラクフ攻略には失敗した。同じ年にハンガリーを破って、ザカルパッチャ地方の一部を奪ったとされるが、同時代の文書の裏づけがないと指摘する歴史家もいる。1280年代には、チェコやリトアニア、ドイツ騎士団とも同盟を結んだ。1285年にはポーランド公ボレスワフに自領を荒らされ、リトアニア人と手を組んだが、ヴァイシュヴィルカス殺害の復讐を恐れて、自らは参加せず、息子のユーリイの参加も止めた。1287年にはジョチ・ウルスのタラブガに従ってポーランドを攻め、1289年にはオパヴァに同盟者ヴァーツラフを訪ねて、豪華な贈り物と戦利品を持ち帰った。
1293年、叔父ヴァスィーリコの子孫が絶えると、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国全体の君主となった。モンゴルとの対立を避けるため、存命中は父の王位を受けなかったが、1301年に死去した。死去したとき、大公国は最も強い時期にあった。リヴィウを発展させた人物として重んじられ、1303年に息子ユーリイのもとで設けられたハールィチ府主教座の基礎も築いた。コンスタンツィアとの間にユーリイ、修道女となったスヴャトスラヴァ、アナスタシアの三人をもうけ、ユーリイは力を蓄えて、自ら「ルーシの王」と称した。
同じ年に亡くなった人物
- カイドゥ (1301年没)
- ボルコ1世スロヴィ (1301年没)
- アンドラーシュ3世 (ハンガリー王) (1301年没)
- ビオランテ・デ・アラゴン (1301年没)
- 張三丰 (1301年(推定))
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