伝記
ビオランテ・デ・アラゴン(ヨランダとも)は、カスティーリャ王アルフォンソ10世の王妃である。1236年6月8日、サラゴサで生まれた。父はアラゴン王ハイメ1世、母はハンガリー王アンドラーシュ2世の娘ビオランテ・デ・ウングリアである。1240年、4歳のときにはすでに、カスティーリャの王太子アルフォンソとの結婚が約束されていたという。1246年、10歳で婚姻の契約がバリャドリードで結ばれた。契約の直後から二人はすでに同居していたらしく、アルフォンソは妻が子のできない体だと考えて婚姻の取り消しまで検討した。しかしそれは妻がまだ幼く、成熟していなかったためだったという。伝説では、王妃は身ごもれずにいたが、医者に静養をすすめられ、1248年にアリカンテがカスティーリャに征服されたのち、近郊の農場で休んで子を授かった。王妃はその地を「良き休息の野」と名づけ、その名は今もアリカンテの地区の名として残るという。正式な結婚式は1249年1月25日に行われた。
結婚から数年は子ができなかったが、その後は夭逝した2人を除いても、早世した王太子フェルナンド・デ・ラ・セルダ、その弟で王位を継いだサンチョ4世ら10人の子をもうけた。1252年からはカスティーリャ王妃となり、1268年にはオウレンセのアリャリスに聖クララ修道院を創設している。
1275年、王太子フェルナンドが父より先に世を去った。アルフォンソ10世は孫たちの権利を退け、次男のサンチョを後継者に指名した。翌1276年に王妃は、1250年にエステルゴムの福者エウセビオが創設し、母がアラゴンに伝えたハンガリーの聖パウロ修道会にちなんで、バリャドリードに聖パウロ修道院を建てた。サンチョはのちに父に背いて王位を奪うが、王妃の子のうち、この反乱のあいだ父の側についたのは、修道女になっていたベレンゲーラだけだったという。
フェルナンドの未亡人ブランカ・デ・フランシアと王妃は、退けられた遺児たちを支持した。ブランカは兄のフランス王フェリペ3世に、王妃は兄のアラゴン王ペドロ3世に助けを求め、ペドロ3世は遺児たちを自国に迎えてシャティバの城に住まわせた。王妃はサンチョ4世とその子フェルナンド4世の治世のあいだは、ずっとアラゴンで暮らした。孫たちの継承権を支え、もう一人の孫であるフェルナンド4世と争ったとされる。
1300年、王妃はローマで聖年の免罪を受けた。翌1301年、ローマからの帰途にナバラ王国のロンセスバーリェスで死去した。埋葬地は分かっていない。ロンセスバーリェスの王立参事会教会に葬られた可能性があるとされる一方、アリャリスの聖クララ修道院に葬られたとする説もあるが、確かな証拠はない。
同じ年に亡くなった人物
- カイドゥ (1301年没)
- 張三丰 (1301年(推定))
- ボルコ1世スロヴィ (1301年没)
- ザヘド・ギラニ (1301年)
- レーヴ・ダヌィーロヴィチ (1301年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドレゴト・ガリンデス (972年没)
- パスクアル・マドス (1870年没)
- カルロス2世 (ナバラ王) (1387年没)
- ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス (2014年没)
- グアダルーペ・オルティス・デ・ランダスリ (1975年没)