伝記
アンドラーシュ3世は、アールパード朝ハンガリー王国の国王(在位1290年~1301年)である。アールパード家の男系で最後のハンガリー王となった。1265年ごろ、イタリアのヴェネツィアで生まれ、「ヴェネツィア人」と呼ばれた。父イシュトヴァーンはアンドラーシュ2世の末子で、父王の死後に生まれたが、異母兄たちには庶子と見なされていた。母トマシナ・モロシーニはヴェネツィアの富裕な貴族の娘である。1272年に父が没すると、アンドラーシュは母方の親戚たちを後見人としてヴェネツィアで教育を受けた。
1278年、ハンガリー西部に勢力をもつ貴族ケーセギ・ヤーノシュに招かれてはじめてハンガリーに入った。ケーセギは、国王ラースロー4世に対抗させる意図だったという。アンドラーシュは従兄弟のラースロー4世にスラヴォニアの統治権を求めたが拒まれ、ヴェネツィアへ戻った。1290年の初めには、破門されたラースロー4世に代わる王にしようと、エステルゴム大司教ロドメールとケーセギが再び彼を招いた。しかしアンドラーシュは、ケーセギの敵である貴族ハホート・アルノルドに捕らえられ、オーストリア公アルブレヒトに引き渡された。同年7月10日にラースロー4世がクマン人に暗殺された。ラースローに男子はいなかった。この知らせを受けたアンドラーシュはウィーンを脱し、7月23日に大司教ロドメールから聖イシュトヴァーンの王冠を受けた。その後、聖職者と貴族が議会を開き、決定事項は1290年法令として発布された。貴族と聖職者の特権を確認する戴冠証書を出した最初のハンガリー君主であった。即位後には、ポーランドのイノヴロツワフ公ジェモミスウの娘フェネンナと結婚した。
父が庶子と見なされたことから、アンドラーシュの統治の正統性は早くから疑われ、王位の請求者が現れた。スラヴォニア公アンドラーシュを自称する人物の軍は支持者に敗れた。ローマ王ルドルフ1世はハンガリーが神聖ローマ帝国に属するとして、息子のアルブレヒトの即位を宣言した。1291年4月には、ナポリ王カルロ2世の妃でラースロー4世の姉マーリアが王位を主張し、その子や孫のカルロ・ロベルト(のちのカーロイ1世)も請求を続けた。ローマ教皇側もカルロ・ロベルトを推した。アンドラーシュはザルツブルク大司教コンラートと同盟してオーストリアに進軍して勝利し、8月26日にハインブルクで和平が結ばれて、アルブレヒトは請求権を放棄した。しかし、ケーセギ家の城砦の解体を約束したことから、ケーセギ・ミクローシュが反乱を起こし、アンドラーシュは捕らえられて身代金を払った。
1293年に母トマシナをハンガリーに呼び寄せると、トマシナは反乱貴族と交渉して統治を認めさせた。1294年から1295年には、母とともにカルロ・マルテッロの支持者を数回攻撃した。妻フェネンナに先立たれ、1296年2月6日にアルブレヒトの娘アグネスと再婚し、その支援でケーセギの反乱を鎮めた。1298年の議会では、大貴族を抑え聖職者と中小貴族を守るための法令が出され、王の側近に司教と中小貴族から各2名を選ぶことなどが定められた。議会を中心とする君主制を築く試みは成功しなかったが、中小貴族の立場は向上した。
1300年8月、ナポリのカルロ・ロベルトがスプリトに上陸し、ザグレブを占拠した。母トマシナが急死していたためアンドラーシュは迎え撃てず、病にかかって1301年1月14日に没した。遺体はブダの修道院に葬られ、アールパード家の男系は断絶した。先妻との間の娘エルジェーベトは、のちにドミニコ会の修道女となった。
同じ年に亡くなった人物
- ザヘド・ギラニ (1301年)
- ビオランテ・デ・アラゴン (1301年没)
- レーヴ・ダヌィーロヴィチ (1301年没)
- 張三丰 (1301年(推定))
- ボルコ1世スロヴィ (1301年没)
同じ地域に関係する人物
- ロマン・ギルシュマン (1979年没)
- バラバーシュ・ミクローシュ (1898年没)
- アバ=ノヴァク・ヴィルモス (1941年没)
- Kalman Kalocsay (1976年没)
- ヤンドー・イェネー (2023年没)