HISTORICAL PERSON · 1301年没

カイドゥ

13世紀後半に中央アジアで独立王国を築いたモンゴル皇族で、オゴデイの孫。30年以上にわたりクビライの大元ウルスと争い、1269年のタラス会盟でマー・ワラー・アンナフルを三家で分割した。

生涯
1301年没
死亡地
アフガニスタン・イスラム共和国(新疆ウイグル自治区 / カラコルム山脈)
出生地
モンゴル帝国
出典
世界地図
アフガニスタン・イスラム共和国(新疆ウイグル自治区)

伝記

カイドゥは、13世紀の後半に中央アジアで独立した勢力を築いたモンゴルの皇族である。チンギス・カンの三男オゴデイの子カシンの子で、漢語の史料では海都と書かれる。1235年ごろ、祖父オゴデイの治世に、父の死後に生まれたとされ、母はベクリン部の出のセブキネ・ハトンといわれる。

オゴデイ家は、1248年に皇帝グユクが没するとトルイ家に帝位を奪われ、有力者を追放されるなどの圧迫を受けた。それでもカイドゥは、1252年にモンケからカヤリクの地を与えられ、新しい政権から優遇された王族の一人であった。ところが1256年、モンケの使者である判事の史天林を捕らえ、約20年間とらわれの身のままにした。1259年にモンケが急死し、弟のクビライとアリクブケが後継者を争うと、カイドゥはアリクブケに味方したとされる。アリクブケが敗れたのち、クビライが入朝して帰順するよう求めたが、カイドゥは拒んだ。この混乱のなかでオゴデイ家内の権力を握り、1266年には西北モンゴリアのクビライ配下の軍を攻撃して反抗の意図を明らかにした。以後30年以上にわたってクビライの大元ウルスと対立し、中央アジア以西のモンゴルの諸勢力が皇帝権力から独立する流れを決定づけた。この一連の行動は「カイドゥの乱」と呼ばれる。

クビライはチャガタイ家の勢力を吸収しようとしてバラクを送り込んだが、バラクは力ずくで当主の座を奪い、やがてカイドゥの勢力を狙って西へ進んだ。カイドゥはバラクと皇帝直轄領の支配権をめぐって争ったのち、1269年にバラクや西北ジョチ・ウルスの代表者と会盟し、マー・ワラー・アンナフルを三家で分けた。通説ではこの場でカイドゥが皇帝に選ばれたとされてきたが、史料では確認できず、史実とは考えられていない。実際、配下の王族や臣下からは、「兄さん」を意味する敬称をつけたカイドゥ・アカと呼ばれていた。1270年にバラクはイランに攻め入るが、イルハン朝のアバカに敗れて勢力を失い、カイドゥと講和した直後に急死した。カイドゥに毒殺されたともいわれる。カイドゥは後継者に推すニグベイを立てたが、ニグベイはまもなく反抗して戦死した。そこでバラクの遺児ドゥアと和解してこれを擁立し、チャガタイ家を自らの支配下に置いた。

1271年に国号を大元としたクビライは、四男ノムガンの軍を中央アジアに送ってアルマリクを占領した。しかし1276年に、軍に加わっていたモンケの遺児シリギが反乱を起こし、ノムガンを捕えてカイドゥに引き渡した。反乱はまもなく鎮圧されたが、元の駐留軍は解体し、アリクブケの遺児メリク・テムルらがカイドゥのもとに投じた。こうしてカイドゥの支配地は、ジュンガリアを中心に、東はアルタイ山脈の東麓、西はトランスオクシアナにおよび、アム川でイルハン朝と接する広い領土になった。1287年に元の貴族ナヤンが反乱を起こすとカイドゥは呼応してカラコルムを攻めようとしたが、元の駐留軍に阻まれた。クビライの親征でナヤンが敗死し、1289年にクビライがカラコルムへ出兵すると、カイドゥは軍を引き、クビライの打倒は失敗に終わった。

1294年にクビライが病没してテムルが帝位を継ぐと、元の安定を見て、カイドゥのもとから元へ投降する者が相次いだ。カイドゥはこれを食い止めて決戦に臨むため、1300年に中央アジアの諸勢力の総力を挙げて出征した。しかし1301年のテケリクの戦いで敗れ、その傷がもとでまもなく死んだ。死後はドゥアが中央アジアの最高実力者となり、1306年にカイドゥの遺児チャパルを追ってオゴデイ家を併合した。

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